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藤井重郎
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藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月18日 - 1937年(昭和12年)8月21日)は、日本の陸軍軍人。歩兵大佐で予備役となったのち、靖安軍司令官に就任し、熱河支隊長として戦死した。最終階級は陸軍少将、満州国陸軍中将。
経歴
福島県出身。農業を営む塩谷家の六男で、藤井家の養子となる。長男の藤井毅は陸軍獣医大尉、三男の藤井信は陸軍士官学校57期出身で戦死した陸軍大尉である[1]。藤井は創設以来の稚松会会員であった[2]。会津中学から仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、陸軍士官学校16期を卒業。1904年(明治37年)11月、歩兵少尉に任官した。
- 陸軍将校
歩兵第32連隊附となり、翌年5月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に従軍した。戦後は歩兵第65連隊大隊副官[2]、同連隊および歩兵第4連隊の各中隊長、歩兵第61連隊大隊長などを務める。1925年(大正14年)12月、歩兵第44連隊附中佐、松本連隊区司令部員を歴任。1930年(昭和5年)8月、大佐へ進級したが、諭旨によって予備役編入となる。
- 満州国軍
石原莞爾と土肥原賢二の招き[3]で満州に渡った藤井は靖安遊撃隊の副司令に就任し、1932年(昭和7年)に実施された遊撃隊の軍政部移管に伴い、改称された靖安軍の司令官となる[4]。靖安軍は匪賊討伐に勇名があった[* 1]。また満州国の官吏養成機関である大同学院の学監を務め[* 2]、1期生97名を卒業させた[5]。講師を務めたのは星野直樹、平貞蔵、伊藤整一らである[5]。1937年(昭和8年)、日中戦争の勃発に伴い、藤井は熱河支隊長[1]として出動し、敵情視察中に狙撃を受け戦死[3]した。日本陸軍、満州国陸軍においてそれぞれ一階級特進している。
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栄典
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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