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藤原季兼

平安時代後期の貴族 ウィキペディアから

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藤原 季兼(ふじわら の すえかね、生年不詳 - 長寛2年5月3日1164年5月25日))は、平安時代後期の貴族藤原北家道綱流、刑部卿藤原敦兼の子。官位正四位下備後守

経歴

祖父・藤原敦家、父・敦兼、母方の祖父・顕季と名だたる管絃堪能者を輩出した家系に生まれ、自身も管絃に優れた[1]従五位下叙爵後、白河院政期末の大治元年(1126年能登守に任官し、翌大治2年(1127年)従五位上に叙せられる。長承元年(1132年右衛門佐に任ぜられ、この頃に崇徳天皇が管弦の催しを行った際、季兼は急に昇殿を許されて篳篥を演奏した[2]

その後も右衛門佐を務める一方で、長承2年(1133年阿波守康治元年(1142年)ごろ上総介久安5年(1149年備後守と、白河院政期末から鳥羽院政期にかけて20年以上に亘って地方官を務め、位階久安5年(1149年正四位下に至った。この間、鳥羽院の八幡御幸において神楽庭火の本歌をとなえたり[3]保元3年(1158年)に行われた復活内宴で篳篥を演奏したほか[4]源資賢らとともに雅仁親王(のち後白河天皇)の今様先達を務めるなど[5]、音楽面での活動が見られる。

長寛2年(1164年)5月3日卒去。最終官位は前備後守正四位下。

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官歴

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

参考文献

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