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藤原家保
日本の平安時代の公家 ウィキペディアから
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藤原 家保(ふじわら の いえやす)は、平安時代後期の公卿。藤原北家魚名流、修理大夫・藤原顕季の次男。官位は従三位・参議。
生涯
各国の受領を歴任し、長承3年(1134年)従三位参議に至る。白河院政期において比類なき信任を受け、白河院司受領、院庁別当を歴任。家保の一家は、兄である長実の系統を凌いで善勝寺流の嫡流の地位を占めるに至った。 だが、白河法皇が没して鳥羽院政期に入ると家保と嫡男の顕保は失脚状態になり、代わりに早くから鳥羽上皇に仕えていた三男の家成が台頭する。家成は鳥羽上皇の支持を背景に父の持っていた利権を独占して鳥羽院政の中心を担う存在となった。その子孫は羽林家の四条家として現代に至るまで続いたのに対し、顕保は公卿になれないまま播磨守在任中に没し、他の男子も崇徳上皇[1]の側近となって家成に対抗しようとするものの、保元の乱によって没落した[2]。
受領時代に培った経済力を生かし、証金剛院など多くの堂塔の造営にも貢献した。邸宅は三条東洞院(京都市中京区)にあったと伝わる。
官歴
『公卿補任』による
- 寛治7年(1093年)2月5日:主殿助
- 寛治8年(1094年) 正月某日:郁芳門院蔵人。6月15日:蔵人。7月16日:叙爵(従五位下)
- 嘉保2年(1095年) 正月28日:越前守
- 永長2年(1097年) 3月24日:左衛門佐
- 承徳2年(1098年) 7月20日:従五位上
- 承徳3年(1099年) 正月3日:正五位下
- 康和2年(1100年) 7月23日:従四位下
- 康和3年(1101年) 3月29日:従四位上
- 康和4年(1102年) 8月10日:丹波守
- 嘉承2年(1108年) 11月29日:正四位下
- 天永元年(1110年) 10月12日:但馬守
- 元永元年(1119年) 11月29日:丹波守
- 保安2年(1121年) 6月5日:中宮権亮。6月26日:播磨守
- 保安3年(1123年) 12月22日:兼内蔵頭
- 保安4年(1123年) 9月6日:中宮亮
- 天治元年(1125年) 11月24日:待賢門院別当
- 大治4年(1130年) 12月13日:伊予守
- 天承元年(1132年) 12月24日:兼修理大夫
- 天承2年(1132年) 正月26日:従三位
- 長承3年(1134年) 2月22日:参議
- 長承4年(1135年) 正月28日:兼近江権守
- 保延2年(1136年) 7月1日:出家。8月14日:薨去(享年57)
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系譜
脚注
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