トップQs
タイムライン
チャット
視点
藤原敦光
平安時代後期の貴族、文人、儒学者、漢詩人。正四位下・式部大輔。勅撰集『金葉和歌集』に2首入集。正四位下・式部大輔 ウィキペディアから
Remove ads
藤原 敦光(ふじわら の あつみつ)は、平安時代後期の貴族・文人・儒学者。藤原式家、右京大夫・藤原明衡の子。官位は正四位下・式部大輔。
経歴
4歳で父・明衡に死別し、兄・敦基の養子として育つ。嘉保元年(1094年)に官吏登用の対策に及第して、承徳2年(1098年)に式部丞に任命される。大内記・文章博士・大学頭を経て、保安3年(1122年)に式部大輔となる。保延元年(1135年)に発表された天変地異・飢饉・盗賊に関する「勘申」を始めとして、漢文を書く能力によって認められ、堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の三代に侍読として仕え、彼の手になる詔勅は多い。しかし儒官の功労による参議任官は叶わなかった。天養元年(1144年)4月に病のため出家し、その年の10月28日に没した。享年82。
作品・著作
- 「柿本朝臣人麿画讃」「白山上人縁起」含め51編の漢文…『本朝続文粹』所収
- 『朝野群載』『表白集』所収の80編余の漢文
- 『本朝無題詩』所収の漢詩60編余
- 『金葉和歌集』所収の和歌2首
- 『続本朝秀句』『本朝帝紀』の著作があったが散逸。
『古今著聞集』哀傷より | |
往事渺茫共誰語 | 往事渺茫 誰と共に語らん |
閑庭唯有不言花 | 閑庭 唯だ言わざるの花有り |
系譜
出典
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads