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藤原景舒

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藤原 景舒(ふじわら の かげのぶ)は、平安時代中期の貴族従三位藤原国章の子[6][1]

概要 凡例藤原 景舒, 時代 ...

経歴

天徳4年(960年天徳内裏歌合で念人を務めた童子の一人として名が見える[7]永観2年(984年)娘を五節舞の舞姫として殿上に献じている[注 3][6]

円融朝から一条朝にかけて、伊賀守加賀守播磨守など受領を歴任[9][10][2]六位蔵人を務めていた時期もあり、天皇側近の受領階層だったことがうかがえる[6][11][1]。また兄弟の景斉とともに藤原実資家人でもあった[12]

一条朝前期の永延3年(989年)播磨守であった景舒は、伊予守源清延と交替する形で伊予守に遷る[注 1][2]。この人事は、寛弘7年(1010年)に尾張守大江匡衡丹波守高階業遠が官職を交替した際に先例として挙げられている[13]。しかし、翌永祚2年(990年)には藤原道頼が伊予守に任ぜられており[14]、景舒は短期間で伊予守を去ったとみられる。

官歴

系譜

尊卑分脈』による[1][5]

  • 父:藤原国章
  • 母:伊予守能守の娘[注 2]
  • 妻:源遠古の娘
    • 男子:藤原忠家
  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原景章
    • 女子:藤原則友の妻(藤原国成の母)

脚注

参考文献

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