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広橋頼資
鎌倉時代前期の公卿。藤原兼光の五男。母は院尚(法印、院慶)の娘。広橋家の祖・初代。従二位、権中納言。民部卿・藤原光範の後を継いだとされる。出家 ウィキペディアから
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広橋 頼資(ひろはし よりすけ、旧字体:廣橋 賴資󠄁)は、鎌倉時代前期の公卿。藤原北家真夏流(日野家)、権中納言・藤原兼光の五男。民部卿・藤原光範の後を継いだとされる。広橋家の祖。四辻・勘解由小路とも称する。
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経歴
儒学に明るく、近衛家に近い立場を取った。但馬守・蔵人頭・左大弁・造東大寺長官などを経て、元仁元年(1225年)12月参議に任じられて公卿に列し、翌年(1226年)7月従三位、12月権中納言に叙任。次いで安貞2年(1228年)3月正三位、貞永元年(1232年)12月従二位へ昇叙したが、翌2年(1233年)1月権中納言を辞して長男経光を右少弁に申任し、2月本座を許された。嘉禎元年(1235年)12月病を理由に出家、法名を真寂としたが、2カ月余りで薨去した。享年55。
熊野信仰に厚く、承元4年(1210年)・建保4年(1216年)・寛喜元年(1229年)の参詣などは日記『頼資卿記』に詳細に残されているほか、公私合わせて20回以上の熊野参詣が知られている。
系譜
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