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蔵人頭

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蔵人頭(くろうどのとう)とは、日本の朝廷における令外官の役職で、蔵人所の実質的な長である。大同5年(810年)、蔵人所の設置に伴い、初代の蔵人頭に藤原冬嗣巨勢野足が任命され、その後、天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。

概説

要約
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蔵人所の長官は大臣が兼任する「蔵人別当」であったが、これは名目的なもので、実務上は蔵人頭が蔵人および殿上人を指揮し、勅旨上奏の伝達や、天皇身辺の世話等を取り仕切った。定員は2名。官位相当は無いが、四位または五位の者が補任され、次第に四位が主となった。殿上の首席に座を占めることから「貫首」(かんず、貫主の表記も)や、「鴛首(鵷首)」とも呼ばれた。また、蔵人として禁色の使用が許された。

蔵人は天皇の践祚に際しては職を解かれたが、次第に新天皇の蔵人・蔵人頭として再任される例も多くなった。また蔵人頭は、ほとんどの場合において、三位参議に任じられた場合には離任した。参議に欠員が出た場合に離職して昇任することも多く、公卿への登竜門ともいえる役職となった。例外として在原行平参議と蔵人頭を兼任し、藤原兼家は蔵人頭左中将のまま三位に叙せられ、中納言に昇任しても2か月の間、蔵人頭の職にあった。離任に際して後任を推挙した例として、源俊賢が当時無官であった藤原行成を推したことが知られている[1]

蔵人頭の本官は、初期より武官弁官が多かったものの[2]、これは天皇の近臣である有能な官人をあてたためと推測され[3]、ほかにも式部省官人や内蔵寮官人、中宮亮春宮亮、また無官(散位)等、さまざまであった。武官の中でも近衛次将と兼任する例が多く、10世紀頃までは近衛少将で補される例も見られたが、平安時代中期頃よりは、近衛中将の兼任が多くなった。もう一名は大弁または中弁を本官とする場合が増え、それぞれ「頭中将(とうのちゅうじょう)」、「頭弁(とうのべん)」と呼ばれた。平安時代末期には、おおむね頭中将と頭弁が1名ずつ任じられるようになったが、2名とも中将もしくは弁官である例や、他の官と兼任する例もあった。例えば、源俊賢が蔵人頭に就いたときは右中弁であったが、もう一人の蔵人頭が左中弁の源扶義であったため、頭弁が二人という状態になった。また、安元2年(1176年12月5日除目では、左中将藤原定能と右中将藤原光能が蔵人頭に任ぜられた[4]。中将・弁官以外の職から選ばれる場合にも、それぞれの職にあわせて「頭亮(とうのりょう)」、「頭頭(とうのとう)」等と呼ばれた[5]

藤原俊憲の『貫首秘抄』には、武官である頭中将は「禁中万事」を申し行う、すなわち宮中における側近奉仕を担当し、文官である頭弁は「天下巨細」を執奏、すなわち天皇太政官の間で政務に関する連絡を担当したと記される。平安時代中期以降、昇進コースや家格が固定していくにつれ、頭中将は上流貴族出身者が務めるのに対し、実務処理能力が重視された頭弁は、朝廷摂関家政所において実務官僚を務めた勧修寺流日野流などの藤原北家や、高棟流平氏などの中級貴族の家系から輩出されることが通例となった。14世紀半ば以降は、平氏の蔵人頭は任命されなくなり、頭弁は勧修寺流と日野流にほぼ独占された。

江戸時代には、頭中将は羽林家、頭弁は名家の独占であり、大臣家からは例外的に2名(慶長年間の正親町三条実有寛政年間の中院通知)が頭中将に任じられたのみである一方、半家六位蔵人しか出せないとされた。ただし、羽林家名家においても、寛文印知の段階で150石に満たなかった家からは蔵人頭を輩出しておらず、家格の問題に加えて、有職故実や作法の心得、装束の用意を行うだけの財政的な余裕がある家で無いと務められなかった。また、旧家かつ内々衆から出すのが望ましいという考え方が強かったらしく、安永元年(1772年)に参議に昇進した東園基辰を最後に、新家からの任命は行われなくなった。また、元禄年間以降、外様衆からの補任は油小路家のみとなっている[6]一条家の家臣であった下橋敬長大正年間に語ったところによれば、頭中将を出せる羽林家は、正親町家滋野井家姉小路家清水谷家四辻家橋本家(以上閑院流)・中山家今城家(以上花山院流)・中御門(松木)家園家東園家(以上中御門流)・鷲尾家油小路家櫛笥家(以上四条流)・庭田家の15軒、頭弁を出せる名家は、日野家広橋家柳原家烏丸家(以上日野流)・甘露寺家葉室家勧修寺家万里小路家清閑寺家中御門家坊城家(以上勧修寺流)の11軒であった[7]。また下橋によれば、弁官と五位蔵人を歴任してから蔵人頭となる頭弁は事務に長けていたが、頭中将は職務に通じないまま首座に任じられるため、実務に明るい頭弁や五位蔵人(当時は通例3名)から苛められ、中には鷲尾隆賢のように心労で亡くなる者もおり、「頭中将になると殺される」と言われていた[8][9]

また、室町時代には殿上人の首座として「殿上管領」の役職が生じ、多くは蔵人頭の一人が務めた。この時、管領を務める蔵人頭を「管領頭」、もう一人の蔵人頭を「傍頭」と呼んだ。管領頭は、位次にかかわらず、頭弁が務める例が多かったが、その地位を巡って相論が起きることもあった。また、管領頭と位の高い傍頭の間で座次をめぐっての争いもまま見られた[10][5]。江戸時代に入ると、蔵人所別当と殿上管領は任命されなくなった[11]

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蔵人頭一覧

要約
視点

在任者の交替の表現に主眼を置いているため、欄の左右に特に意味はない。ただし同時の就任等により表現可能な場合は、左が高位である。位階、官職、年齢は就任時のもので、その後の昇階や転任は省略した。また官職は京官を中心に1、2に限った。「管領」は殿上管領の地位を示す。

平安時代

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鎌倉〜室町時代

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戦国〜江戸時代

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脚注

参考文献

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