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西園寺実長
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西園寺 実長(さいおんじ さねなが)は、南北朝時代の公卿。太政大臣・西園寺公重の子。官位は正三位・権中納言(北朝)。
経歴
建武2年(1335年)11月に叙爵。初名は実茂(さねしげ)。建武5年(1338年)従五位上・侍従に叙任される。広義門院からの庇護があったためか、官位は累進し、康永3年(1344年)1月従三位に叙されて公卿に列した。貞和4年(1348年)4月参議となり、10月春宮権大夫を兼任(春宮は直仁親王)。貞和5年(1349年)1月正三位へ進み、9月権中納言に任じられる。正平6年(1351年)12月の正平一統に際しては南朝の賀名生に参候した。同7年(1352年)2月崇光上皇の院別当に補され、後村上天皇の住吉行幸に供奉するが、閏2月直仁親王が八幡へ移されるに及んで権大夫は解任された。文和2年(1353年)9月父・公重が京都から没落する矢先に職を止められ、文和4年/正平10年(1355年)2月28日に河内国天野で薨去。享年22。妻は同じく南朝に仕えた洞院公泰の娘であり、夫の薨逝に伴って遁世した。
なお、『実隆公記』によれば、「竹林院大納言〔ママ〕実長卿」の筆写にかかる『尚書』1巻が存したという[3]。
また、正平19年(1364年)には、西園寺氏の人間(石野弥栄はこれを公重の息子・西園寺実長のことであると推定している)が伊予西園寺氏の家督を相続しているが、実長との関係は不明である[2]。
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系譜
脚注
参考文献
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