トップQs
タイムライン
チャット
視点
西川克弘
ウィキペディアから
Remove ads
西川 克弘(にしかわ かつひろ、1944年5月19日- )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)である。
来歴・人物
大阪府立吹田高校では、エースとして1962年夏の甲子園府予選準決勝に進むが、中塚政幸らのいたPL学園に延長10回逆転サヨナラ負けを喫し、甲子園出場を逸する。卒業後は関西大学へ進学。
同大学の硬式野球部では入部直後より活躍した。関西六大学野球リーグでは、1年生の1963年春季リーグでノーヒット・ノーランを達成するなど6勝を挙げ、チームも立命館大に次ぐ2位となる。秋季リーグでも5勝を挙げ、リーグ優勝に貢献。1年生の時点で11勝7敗の成績を残していた。
しかし、この年(1963年)の秋季リーグ中、西川と内野手の雑賀幸男が広島カープと秘密裏に契約していた事が発覚。そして、12月2日に西川と雑賀のアマチュア資格剥奪と関西大学の秋季リーグ優勝取り消しが決定となり、当時の野球部監督及び部長が辞任する事態に陥る。更に関西大学も、翌年の春季リーグ戦参加を辞退する事となった。それに伴い、西川は両親と共に契約無効を訴えて大阪地裁へ告訴するも後に告訴を取り下げて間も無く大学を中途退学し、広島カープへ入団した。
カープでは、入団1年目の1964年から一軍に上がり、3勝を挙げた。同年のジュニア・オールスターにも出場している。翌1965年には、ウエスタン・リーグの中日ドラゴンズ戦で、大学時代以来のノーヒット・ノーランを達成。その後も主に中継ぎとして起用されるが、1972年オフに金銭トレードで南海ホークスに移籍。1973年は22試合に登板し1勝を記録するが、同年のシーズン終了後に引退した。のち運送会社に勤務。
1972年6月6日の読売ジャイアンツ戦では、王貞治に節目のプロ入り通算500本目の本塁打を献上している。速球と大きく曲がるカーブを武器とした。
Remove ads
詳細情報
年度別投手成績
記録
表彰
- ジュニアオールスターゲームMVP:1回 (1964年・第2戦)
背番号
- 18 (1964年 - 1972年)
- 33 (1973年)
Remove ads
関連項目
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads