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西陣大映

京都市上京区にあった映画館(1911-2005) ウィキペディアから

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西陣大映(にしじんだいえい)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3]

概要 種類, 市場情報 ...

1911年(明治44年)、京都府京都市上京区西陣京極寄席福の家(ふくのや)として開館した[1][4]。1940年(昭和15年)に映画館に業態を変更して新興映画劇場(しんこうえいがげきじょう)、次いで1942年(昭和17年)には西陣大映劇場(にしじんだいえいげきじょう)と改称した[1][5][6]。戦後は、國際映画劇場(こくさいえいがげきじょう)、西陣大映国際劇場(にしじんだいえいこくさいげきじょう)等の名称を経た[7][8][9][10]。1991年(平成3年)従来の経営者が撤退・休館、1992年(平成4年)には経営が変わりシネ・フレンズ西陣として再開した[11][12]五番町千本日活とともに西陣地区最後の映画館として知られた[1]

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沿革

  • 1911年 - 寄席福の家として開館[1][4]
  • 1940年11月 - 映画館に業態を変更、新興映画劇場と改称[1][5]
  • 1942年 - 西陣大映劇場と改称[1][6]
  • 1950年前後 - 國際映画劇場と改称[7][8]
  • 1963年前後 - 西陣大映と改称[2]
  • 1991年 - 従来の経営者が撤退・休館[11]
  • 1992年 - 経営が変わりシネ・フレンズ西陣として再開[12]
  • 2005年5月31日 - 閉館

データ

  • 所在地 : 京都府京都市上京区千本中立売上ル東入ル東西俵屋町647番地[1][12]
    • 現況は住宅
    北緯35度1分32.36秒 東経135度44分36.48秒
  • 経営 : 大映[5][6] ⇒ 谷口真一[8] ⇒ 大蝶浩志[10] ⇒ 藤本興業株式会社(藤本正男[2]) ⇒ 三栄興業株式会社(永久保シゲ子[11]) ⇒ 東梅田日活(1992年[12] - 2005年)
  • 支配人 :
    1. 池熊猪 (1940年代[5]
    2. 谷口真一 (1950年代[8]
    3. 大蝶浩志 (1950年代[8] - 1963年)
    4. 藤本正男 (1963年[2] - 1970年代)
    5. 永久保シゲ子 (1970年代 - 1991年[11]
    6. 西川宏 (1992年 - 2000年)
    7. 駒田達郎 (2000年 - 2005年)
  • 構造 : 木造二階建[8][12]
  • 観客定員数 : 370名(1942年[5]・1943年[6])、250名(1951年[7])、130名(1993年[12]
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概要

要約
視点

1911年(明治44年)、京都府京都市上京区千本中立売上ル東入ル東西俵屋町647番地に福の家として開館する[1][4]。同館は新京極の福の家同様に、芸人が芸を披露する寄席であった[1][4]。明治末から大正初期にかけて、東に西陣京極、西に五番町を擁するこの千本通は、1912年(大正元年)に京都市電千本線が開通し、当時同館のほか、千本座(経営・牧野省三、1901年開館、のちの千本日活館)、朝日座(1910年開館、のちの千中劇場)、京極座(1910年開館、のちに東映直営の西陣東映劇場)、長久亭(1911年開館、のちの京都長久座)、大黒座(1920年開館、のちの西陣キネマ)といった芝居小屋・寄席が次々に開業し、新京極につぐ歓楽街として発展する時期にあった[1][4]。1912年(大正元年)に千本座が日活の直営館になり映画常設館に業態変換(映画館化)したように[1][13]、これらの実演劇場は追って映画館に変わっていった[1]

1940年(昭和15年)12月、同館は映画館に業態変換、松竹映画の二番館として営業を開始した[1]。追って当時松竹傘下であった新興キネマの上映館に変わり、新興映画劇場と改称している[5]第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、1942年(昭和17年)1月27日、新興キネマは日活の製作部門、東京の大都映画と合併して大日本映画製作株式会社(大映)を設立するにともない、同館は大映の直営館になり、同年、西陣大映劇場と改称している[6]。同じく戦時統制によって同年、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない[5]。当時の同館の支配人は池熊猪、観客定員数は370名であった[5][6]。当時の西陣地域の映画館は、同館のほか、千本座(千本通一条上ル、経営・日活)、昭和館(千本通下長者町上ル、経営・松竹、のちの西陣松竹および西陣昭和館)、西陣キネマ(西陣京極町、経営・佐々木菊之助)、千船映画劇場(千本通鞍馬口下ル、経営・原田喜盛)、京都長久座(千本通一条下ル、経営・松竹)、堀川文化映画劇場(東堀川通長者町33番地、経営・五十棲彦一)、西陣帝国館大宮通寺ノ内上ル2丁目、経営・京都土地興行)、富貴映画劇場(大宮通寺ノ内下ル、1942年から大鉄映画劇場、経営・大阪鉄道)の8館が存在した[5][6]。『上京 史蹟と文化』(1992年第2号)では、「新興映画劇場」は京極座の後身であり、戦後には西陣東映劇場になった、としているが[1]、同時代の資料とは合致しない[5][6]

戦後は、1950年(昭和25年)前後には國際映画劇場(西陣国際映画劇場とも)と改称[7][8]、経営は谷口真一の個人経営、支配人は大蝶浩志が務めた[8]。1955年(昭和30年)当時の西陣地区の映画館は、同館や千本日活館(経営・日活)、京都昭和館(経営・松竹)、西陣キネマ(経営・佐々木菊之助)、京都長久座(経営・田村克寛)といった戦前からの映画館のほか、北野劇場(千本通中立売角、経営・京都興行)、西陣劇場(出水通土屋町東入ル、経営・山本邦雄)、東洋映画劇場(土屋町通中立売上ル、経営・山本義雄、のちの西陣東映劇場)、千中劇場(土屋町一条下ル、経営・田中正治)、大宮東宝映画劇場(大宮寺ノ内上ル、京都興行)、文化会館(寺町通丸太町上ル、経営・宇佐美克)、と合計11館が存在した[8]。大映の上映館にもどり、1960年(昭和35年)には西陣大映国際劇場と改称した[9]

1961年(昭和36年)には、支配人の大蝶浩志の個人経営に代ったが[10]、1963年(昭和38年)には、経営が藤本正男の支配人を兼ねた個人経営に代り、西陣大映と改称した[2]。その後、経営は藤本を代表とした藤本興業株式会社に組織化されるが、1988年(昭和63年)に三栄興業株式会社に経営が移るまでの25年間、藤本による経営がつづいた[3]。三栄興業株式会社は、1970年代以来、同館の支配人を務めた永久保シゲ子を代表とし、永久保は引き続き支配人を務めたが、1991年(平成3年)には撤退、休館に入った[11]

1992年(平成4年)には、駒田達郎を代表とする東梅田日活が同館の経営を継承、シネ・フレンズ西陣と改称して営業を再開した[12]。1993年(平成5年)2月22日に公開された成人映画『シネマHOMOパラダイス』(監督・主演山本竜二、製作・配給ENKプロモーション[14]は、同館をメインにロケーション撮影が行われた[15]

2005年(平成17年)5月31日、閉館した。開館以来94年の歴史に幕を閉じ、西陣地区の映画館は千本日活だけになった。現在、跡地には住宅が建っている。

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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