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許亨植

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許 亨植(ホ・ヒョンシク、허형식1903年-1942年8月3日)は北満州で活動した抗日パルチザンの指導者。本名は許克、別名は李熙山[1]

経歴

1909年、慶尚北道に生まれる[1]黒竜江省賓県に移住。1929年頃にはハルビン近郊で暮らしていた[2]

1930年、中国共産党に入党。珠河、賓県で反帝反封建闘争を指導。満州事変後、哈東反日会を組織し、総会長となる。1933年、湯原農民起義に関わり、湯原反日遊撃隊が成立した。1934年6月、遊撃隊は拡充され、東北反日遊撃隊哈東支隊となり、第1縦隊縦隊長に就任。

1935年1月、東北人民革命軍第3軍に改編され、第3師政治部主任[3]、第1師第3団政治委員[3]、第3団団長[1]を歴任。

1936年8月、東北抗日連軍第3軍に改編され、第3師政治部主任[3]、第1師政治部主任[3][4]、第1師師長[4]を歴任。

1937年1月、東北抗日連軍第9軍政治部主任[5]

1938年6月東北抗日連軍第3軍新編第3師師長[3]。同年冬、東北抗日連軍第3軍軍長。西征に参加し、1939年1月には龍南指揮部指揮を兼任。同年5月、東北抗日連軍第3路軍総参謀長兼第3軍軍長[6]

1940年、第3路軍幹部の李兆麟、馮仲雲、金策などが入ソした後もソ連には行かず、第3路軍系のパルチザンを指揮した[2]。同年6月、第12支隊政治委員兼任。

1942年8月2日、護衛兵数名を連れて遊撃隊の指導に赴いた帰路、北安省慶城風嶺で日本軍と遭遇し銃撃戦となった[7]。足に銃弾を受けて歩行困難な状況になると、部下に本隊に帰るよう指示し、許は残って部下の退去を掩護して射撃を続けた[7]。部下の退去を見届けた後、銃弾を浴びて戦死した[7]

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出典

参考

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