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谷時中

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谷 時中(たに じちゅう、慶長3年〈1598年〉/ 慶長4年〈1599年〉- 慶安2年12月29日1650年1月31日〉)は、江戸時代前期の儒学者。名は素有。通称は大學・三郎右衛門、別号は鈍斎[1]。子に儒学者谷一斎がいる。土佐国甲浦の出身。高知では同じ谷姓の谷秦山谷干城の祖先)と異なり、あまり知られておらず、そのため顕彰されることは殆どない[要出典]

経歴

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清川神社

若いころに高知真常寺(浄土真宗)に入り慈沖と号したが、仏道のほかに中国の古典も読んだ。南学朱子学の祖とされ、土佐吉良宣経に仕えた南村梅軒に朱子学を学んで還俗し、時中と号した。高知で儒学を講じたが、藩などには仕えず、生涯在野ですごした。門下に野中兼山山崎闇斎、小倉三省などがいる[2]。墓所は高知市横浜東町11にある「清川神社」であり、儒葬された墓の上に祠を建てて祀る形式で[3]、高知県指定の史跡となっている。

大正4年(1915年)、従四位を追贈された[4]

逸話

2代土佐藩主山内忠義が 瀬戸巡行の折、日が暮れたので、真常寺境内を通過しようとしたところ、「ここは寺域である。官道を通られたい」と諌めた、という。

高知市横浜で、新田開発し、その新田を子の一斎のために、播磨屋に売却したという。

文献

  • 山根三芳『谷時中・谷秦山 叢書・日本の思想家』明徳出版社、2015年

脚注

関連項目

外部リンク

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