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山内忠義
江戸時代前期の大名。土佐藩2代藩主。山内康豊の長男。従五位下対馬守、従四位下土佐守、侍従、贈従三位 ウィキペディアから
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山内 忠義(やまうち ただよし)は、江戸時代前期の大名。土佐藩の第2代藩主。山内康豊の長男で、伯父山内一豊の養嗣子。
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生涯
文禄元年(1592年)、山内康豊の長男として遠江国掛川城に生まれた[2]。
慶長8年(1603年)に伯父・一豊の養嗣子となり、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より偏諱を与えられて忠義と名乗る。同10年(1605年)に家督相続したが、年少のため実父康豊の補佐を受けた[3]。慶長15年(1610年)、松平姓を下賜され、従四位下、土佐守に叙任された[4]。また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として参戦した。なお、この時預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走し、豊臣方に加わるという珍事が起きている。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、暴風雨のために渡海できず参戦はしなかった[2]。
藩政においては、慶長17年(1612年)に法令75条を制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。寛永8年(1631年)からは野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から伊予宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。改革の効果は大きかったが、兼山の功績を嫉む一派による讒言と領民への賦役が過重であった事から反発を買い、明暦2年(1656年)7月3日に忠義が隠居すると、兼山は後盾を失って失脚した[3]。
寛文4年(1665年)11月24日、死去。享年73。墓所は国史跡の土佐藩主山内家墓所(高知県高知市筆山町)で公益財団法人土佐山内記念財団が管理団体となっている[5]。山内家墓所の北側(高知市天神町)には筆頭菩提寺の真如寺が位置する[5]。
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系譜
子女は5男4女
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演じた俳優
脚注
参考文献
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