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豊橋松竹映画劇場
愛知県豊橋市にあった映画館(1947-2000) ウィキペディアから
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豊橋松竹映画劇場(とよはししょうちくえいがげきじょう)は、愛知県豊橋市花田町にあった映画館。1947年に開館し、2000年に閉館した。
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歴史
要約
視点
豊橋劇場(1899-1945)

近世の吉田(今日の豊橋)は吉田城の城下町や東海道の宿場町として栄え、1889年(明治22年)には町制を施行して豊橋町となった。1899年(明治32年)3月1日、豊橋劇場が開館した[1]。明治時代の豊橋には豊橋劇場のほかに、東雲座、朝倉座、宝栄座、弥生座などの演劇場があった[2]。
大正時代には映画の人気が高まるにつれて、劇場の映画館への転業や廃業が進んだ[3]。昭和改元後の1927年に1170人を有する劇場としてリニューアル[4]した豊橋劇場は豊橋に最後まで残った劇場だったが、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月19日深夜から20日未明の豊橋空襲で焼失した。この空襲では豊橋劇場のほかに、帝国館[5]、錦館[6]、キネマパワー[7]、花田館[8]、豊橋東宝映画劇場[9]も焼失しており、一時的に豊橋から映画館が消えている。
豊橋松竹映画劇場(1945-2000)
1947年5月、花田町石塚(大橋通)の豊橋劇場跡にキララ興行が豊橋松竹映画劇場として開館[10][11]。木造2階建、600人収容[11][12]。この時期の豊橋では相次いで映画館が開館しており、1945年12月には帝国館の焼け跡に第一映画劇場が[13]、 新銭町に第二映画劇場が[14]、豊橋松竹と同じ1946年には松葉町に大劇が[6]、1947年には松葉町にメトロ劇場が[15]開館している[12]。豊橋電気軌道本線(今日の豊橋鉄道東田本線)の路面電車が大橋通を走っていた[16]。1953年(昭和28年)には松竹の直営館となった[16]。
1959年(昭和34年)3月29日に上映された『キクとイサム』(今井正監督)『新婚列車』(穂積利昌監督)の2本立てをもって松竹映画劇場を休館[17]。翌1960年(昭和35年)12月17日[18]、鉄筋コンクリート造2階建・地下1階建の豊橋松竹会館という複合ビルに建て替え、豊橋松竹(334席)と豊橋名画座(486席)の2スクリーン体制として再オープン[11][10]。1963年(昭和38年)には地下に松竹ロキシー(洋画99人)、2階に松竹シネマ(邦画104人)を開設[11]。豊橋松竹会館ビルはパチンコ店や喫茶店なども備える複合ビルだった[10]。豊橋名画座は東三河地方で唯一70mmフィルムを上映でき、立体音響に対応していた[10]。
1985年(昭和60年)4月27日には豊橋名画座がピカデリー1に、松竹ロキシーがピカデリー2に、松竹シネマはピカデリー3に改称し、豊橋松竹と合わせて4スクリーン体制となる[11][新聞 1]。以後『男はつらいよ』『釣りバカ日誌』シリーズや『ラストエンペラー』『バットマン』『デイズ・オブ・サンダー』等の洋画を多数上映してきたが、市内や近郊にシネマコンプレックスが相次いで開業したことから集客力が落ち込んだことにより、2000年(平成12年)5月31日をもって4館とも閉館[11][新聞 2]。53年間の歴史に幕を閉じた。跡地には愛知県信用保証組合東三河支店のビルが建っている[16]。

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脚注
参考文献
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