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通用亭徳成
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通用亭 徳成(つうようてい とくなり、明和5年(1768年)- 安政3年11月24日(1856年12月21日)[1])とは江戸時代の狂歌師、戯作者。本姓は善野氏、名は雅長。本業は下野国栃木の商家で、釜屋喜兵衛(4代目)を号した[2][3]。
来歴
下野国都賀郡栃木下町(現・栃木県栃木市室町)で商家を営み、同屋号の別家と区別するため「釜喜」と称された[注釈 1]。釜屋善野氏はもともと近江国守山の出身で、18世紀中ごろまでに栃木に移住したものと考えられており、徳成はその4代目にあたる[注釈 2][6]。栃木では有数の商家として知られ、本業は質屋だったが、その他に醤油問屋などを営んだ[7]。また喜連川藩の御用達商人でもあったことが確認できる[8]。
狂歌は唐衣橘洲に学び、後に酔竹側の判者を務めるようになる[3][9]。末子もまた通環亭真袖と号する狂歌師だった[10]。安政2年(1855年)3月、栃木の料亭「柳園」で徳成の米寿を盛大に祝う狂歌会が開催され、下野の河野守弘・上野の柳直成をはじめ、全国から900名ほどの狂歌師が参集した。翌年には記念狂歌本『都賀のやままつ』を刊行したが[注釈 3]、同年11月に89歳で没した。葬地は菩提寺の近龍寺、法名は興禅院感誉浄翁居士[11][12][9]。
浮世絵師の喜多川歌麿を支援したことで知られるほか、渡辺崋山・大西椿年・市河米庵・高久靄厓・小山霞外といった書画の名人と交流があった[13][3]。戯作者としては、天保8年(1837年)に合巻『敵鰹差身之業物』(歌川芳虎・芳升・芳宗画)を著している[3][9]。
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脚注
参考文献
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