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酒井重澄

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酒井 重澄(さかい しげずみ)は、江戸時代前期の大名下総生実藩主。飛騨高山藩2代藩主金森可重の七男。

概要 凡例酒井重澄, 時代 ...

生涯

慶長12年(1607年)、飛騨国において生まれる[1]元和8年(1622年)、16歳の時に徳川秀忠に拝謁した[1]。のち徳川家光小姓となって寵愛を受け、家光の命で酒井忠勝の家号を称するようになり、下総国生実に2万5000石を与えられた(3万石との説もあり[2][注釈 1]

元和(1615年 - 1624年)末年ころには[3]堀田正盛とともに家光の「一双の寵臣」と称されたといい[4]、『徳川実紀』によれば、堀田正盛と酒井重澄に官位や知行で上下が生じないよう、正盛が3万石を与えられた際に重澄にも3万石を与えられたとある(典拠として『藩翰譜[5]を挙げる)[4]。ただし『寛政譜』を見る限りは重澄は3万石を与えられておらず、正盛が3万石を越えるのは重澄の改易後である[注釈 2]

しかし重澄は病気を理由に出仕せず、屋敷で静養しているはずであったにもかかわらず4子をもうけたことから家光の勘気を蒙り、寛永10年(1633年)5月13日に改易された[1][4]。勤務怠慢[1][4]・不行跡[4]が理由とされ、切腹相当とされたものの[4]、病弱であったことは事実と見なされて罪を減じられたものである[1][4]

重澄は備後福山藩水野勝成にお預けとなった。寛永19年(1642年)に自殺した。享年36。『藩翰譜』によれば、堀田正盛が佐倉城主となったと聞いて自らの境遇を恥じ、食を絶っての自害という[2]

嫡男の重知(牛之助、権兵衛)[注釈 3]も重澄に連座して伯父の飛騨高山藩3代藩主金森重頼にお預けとなったが[7]承応2年(1653年)に許された。翌年2000俵を給され[8]、子孫は2000石の旗本として存続した。

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登場作品

漫画
  • 今井ムジイ『将軍の血』KADOKAWA

脚注

参考文献

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