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野副昌徳

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野副昌徳
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野副 昌徳(のぞえ まさのり、1887年明治20年)11月20日[1] - 1981年昭和56年)11月2日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

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野副昌徳

経歴

佐賀県[1][3]神埼郡[2]出身。1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業[1][4]。同年12月、歩兵少尉に任官した[4]

1937年(昭和12年)4月、歩兵第46連隊留守隊長に就任し、同年8月、歩兵大佐に昇進[3]。同年9月、歩兵第55連隊長に発令され日中戦争に出征[1][3]。杭州湾上陸作戦、南京戦、広東作戦などに参戦した[1]。1938年(昭和13年)12月、陸軍戸山学校幹事に転じた[3]。1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級し第2独立守備隊長に発令され満州に赴任した[1][3]

1941年(昭和16年)3月、独立混成第7旅団長に発令され中国戦線に出征[1][3]。1942年(昭和17年)7月、前橋陸軍予備士官学校長に転じた[1][3]。1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に昇進し第63師団長に親補され[3]北京の周辺警備を担当した[1]。1945年(昭和20年)3月9日、西部軍管区司令部付となり[5]、同年4月2日、予備役に編入された[1]。翌日に召集され久留米第1陸軍予備士官学校長に就任[1][3]。同年8月27日、第303師団長に発令された[1][3]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

1981年11月、急性腎不全のため大村市立病院(現市立大村市民病院)で死去した[2]

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栄典

外国勲章佩用允許

脚注

参考文献

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