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野田町 (樺太)

日本の領有下において樺太に存在した町 ウィキペディアから

野田町 (樺太)map
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野田町(のだちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した

概要 のだちょう 野田町, 廃止日 ...

野田という地名は、アイヌ語の「ノタ・サム(ノッ・サム)」(岬の傍ら)による[2]

現在はロシア連邦サハリン州チェーホフ (Чехов) などとして、実効支配している。

概要

西は間宮海峡に面していた。主な産業は漁業と炭鉱業であった。公共交通機関としては樺太西線があった。

1921年、鉄道が開通するとともに王子製紙野田工場が操業を開始し、製紙業の街となった[3]

歴史

  • 1915年大正4年)6月26日 - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)の施行により、野田寒村、久良志村が行政区画として発足。野田寒郡(後に野田郡に改称)に所属し、真岡支庁が管轄。
  • 1922年(大正11年)4月1日 - 野田寒村・久良志村が合併して野田村となる。
  • 1922年(大正11年)10月 - 所属郡が真岡郡に変更。
  • 1923年(大正12年)4月1日 - 野田村が町制を施行し、野田町となる。この頃に泊居郡追手村大字追手字釜牛を編入。
  • 1929年昭和4年)7月1日 - 樺太町村制の施行により一級町村となる。
  • 1942年(昭和17年)11月 - 管轄支庁が真岡支庁に変更。
  • 1943年(昭和18年)4月1日 - 「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)が廃止され、内地編入。
  • 1945年(昭和20年)8月22日 - ソビエト連邦により占拠される。
  • 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日野田町廃止。
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町内の地名

旧野田寒村地域
  • 野田
  • 西知取(にししりとる)
  • 梅香(ばいか)
  • 杖遠(つえとお)
  • 釜牛(かまうし)
  • 上南沢(かみみなみのさわ)
  • 南沢(みなみのさわ)
  • 北沢(きたのさわ)
旧久良志村地域
  • 久良志(くらし)
  • 小霜(おしも)
  • 美多良(びたら)
  • 亜牛(あうし)
  • 荒鯉(あらこい)
  • 初志(はつし)
  • 桑間(くわま)
  • 小岬(こみさき)
  • 有部(ありべ)
  • 崎越(さきごし)
  • 知登(ちと)
  • 辺宇気(へんうけ)
  • 鵜巣(うす)

[4]

地域

教育

以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[5]

  • 樺太公立小岬国民学校
  • 樺太公立久良志国民学校
  • 樺太公立野田国民学校
  • 樺太公立北沢国民学校
  • 樺太公立南豊国民学校

観光

  • 梅香温泉[6]

脚注

関連項目

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