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金城芳子
社会事業家 ウィキペディアから
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金城 芳子(きんじょう よしこ、1902年〈明治25年〉3月28日[1][2] - 1991年〈平成3年〉12月3日[2][3])は、日本の福祉活動家[1]、社会事業家[4]。夫は沖縄研究者の金城朝永。長年にわたって福祉の道に挺身し[5]、現役を引退後も東京の自宅で「ふるさとの家」を主宰し、沖縄から上京してくる若者たちの支援に努めた[1][5]。
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経歴

沖縄県那覇区辻町で誕生した[5]。旧姓は知念[6]。早くに父が死去したため、母より家の跡取りとして、男に劣らない学問をさせるべく育て上げられた[5]。尋常小学校時代により、伊波普猷らによる「那覇子供会」に参加しており、沖縄県立第一高等女学校へ進学後も沖縄組合教会に出入りした。第一高女を卒業後も、伊波の講演会に同行するなどして、強い影響を受けた[5][7]。
1922年(大正11年)に上京[1]。関東大震災で被災したために一時は帰郷するも、1924年(大正13年)に再上京して、金城朝永と結婚した[5]。失業救済事業で東京の託児所に勤めたことがきっかけで[5]、1928年(昭和13年)に東京市養育院の保母長となり、里親・里子問題に取り組んだ[1]。その後も1928年(昭和3年)に東京都中央児童相談所技師[1]、1948年(昭和23年)に東京都の児童相談所勤務と[8]、30年近くにわたって福祉の道を歩み続けた[5]。特に1948年からの児童相談所時代は、児童福祉法施行により相談所が開設されてからのもので、里親制度のもとに千組もの里親を手がけ、「里親制度の草分け」として、日本全国の関係者から高い評価を受けた[8]。
1980年(昭和55年)に退職後[6]、沖縄県からの委嘱を受け[5]、東京の自宅を開放して[2]、「沖縄ふるさとの家」を主宰し、学業や就職で上京してくる沖縄の若者たちの育成に努めた[1][5]。
福祉事業の傍らで、1947年(昭和26年)に発足した沖縄文化協会を、陰ながら支えた[5][7]。沖縄文化を研究していた夫の朝永と1955年(昭和30年)に死別した後も、沖縄関係者の会合には必ず参加し、「朝永の夫です」と挨拶して、朝永を忘れさせないことを心がけていた[5]。
晩年は頻繁に帰郷し、ひめゆり同窓会の平和記念資料館作りの支援[9]、講演など、自由に生活していた[5]。作家の新垣美登子、医師の千原繁子、作家の新島正子といった同郷の女性たちと交流も楽しみ、特に新垣美登子とは親交があった[9]。
1991年(平成3年)12月、東京都新宿区の病院で、心不全により89歳で死去した[3]。没後、沖縄女性の地位の向上を願っていた遺志に基づいて、遺産が沖縄協会に寄付され、それをもとに「金城芳子基金」が創設され[7][10]、沖縄女性の地位向上のための研究、調査、活動に対しての助成が行われ続けている[11]。
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著作
- 『なはをんな一代記』沖縄タイムス社〈タイムス選書〉、1978年1月。 NCID BN05868069。
- 『相思樹の花影 おきなわ女の群像』沖縄文化協会、1985年1月。 NCID BN06409817。
- 三木健編 編『沖繩を語る 金城芳子対談集』ニライ社、1988年9月15日。 NCID BN02797893。
- 『おもひがなし 金城芳子歌日記』ニライ社、1990年8月。 NCID BN06079235。
- 『惜春譜』ニライ社、1991年10月。 NCID BN07005493。
脚注
参考文献
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