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長尾宏也
日本の登山家・随筆家 ウィキペディアから
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長尾 宏也(ながお こうや、1904年(明治37年)1月10日 - 1994年(平成6年)8月21日 )は、日本の登山家であり、随筆家でもある[1]。まだ日本では珍しかった山小屋であるヒュッテ・霧ヶ峰を経営した人物として有名。日本山岳会員[2]、日本児童文芸家協会・日本国立公園新社理事[3]。岡山県高梁市出身[4]。
経歴
要約
視点
生い立ち
1904年(明治37年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の長尾家に生れる[4]。大正4年度吹屋小学校を卒業。地元の旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。長尾自身、好奇心旺盛な性格であり、5年生の夏には、神戸市の貧民窟(スラム)へ見物に行く。そこは、人一人やっと通れる位の路地があり、病める者、貧しき者、悩める者、弱き者、虐られた者等、世の中の敗者とされる人々がひしめき合い、これを見て世の中の不平等さを認識した。また、長尾は貧民窟と呼ばれている街の名前に哀愁と魅力を感じていた[5]。
その後、1922年(大正11年)同校を卒業し[5]、東京にある青山学院高等科人文科(現:青山学院大学)へ進学する[6]。1925年(大正15年)青山学院を卒業し[7]、当時、帝大の大学院並みの教授陣を揃えており、有名だった学校法人アテネ・フランセ外国語専門課程で2年間学ぶ[8]。1927年(昭和2年)同校を卒業する[3]。
登山家として
専門学校卒業後、一般企業に就職するが、その後、1931年(昭和6年)長野県の霧ヶ峰に山小屋・高地農業研究所を兼ねたヒュッテを建設する[4]。しかし長尾は、不慣れな高地での農作業が原因で、腎臓を患って入院する。留守の間は、彫刻家の青年が、代わりに畑を耕していた[9]。その様な長尾であったが、彼は登山仲間からも一目置かれており、インテリ仙人とよばれていた[10][11]。霧ヶ峰の山小屋は全体では250人程度、収容可能となっており、スキー場開発も行われており、日本のリゾート地開発の走りを長尾が行っていた[11][12][13]。
1935年(昭和10年)の夏には、霧ヶ峰で5泊6日の「山の会」が開かれる[14]。集まった会員の中には、講師として日本山岳会会長の木暮理太郎、日本民族学の創始者である柳田国男、植物学の権威の武田久吉、中央気象台長の藤原咲平ら名だたる人物が講義を行っておいる。これらを公聴しているメンバーも、有名な詩人である尾崎喜八、日本野鳥の会の創立者の中西悟堂、共同通信社専務理事の松方三郎、女性登山家の草分け的存在の村井米子、文芸評論家の小林秀雄、小説家の深田久弥等、有名人で殆どを占めた[14]。これらは、長尾のアイデアで開催されており、人脈の広さが伺える。
しかし、先進的な山小屋であったヒュッテ・霧ヶ峰は、 1936年(昭和11年)12月に火事で焼失する[14]。失意の中、山小屋の再建を試みるも断念し、再び東京へ戻り、斉藤電器の専務取締役となる[15]。また、長尾は文才もあり、地元の高梁では、第一回芥川賞作家で後にノーベル文学賞候補にもなる石川達三と並び賞されている[16]。この後、長尾は斉藤電器の社長となり[17]、経営を行いながら、執筆活動を続けた[8]。
この他、長尾は日本児童文芸家協会理事、日本国立公園新社理事を務めるなど、次世代の教育にも力を入れていたが[3]、1994年(平成6年)8月21日、死去。享年90歳であった[8]。
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脚注
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