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長谷忠
日本の詩人、LGBT活動家。 ウィキペディアから
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長谷 忠(はせ ただし、1929年〈昭和4年〉3月15日[1] - 2024年〈令和6年〉11月10日[2])は日本の詩人。ペンネームは長谷 康雄(はせ やすお)[3]。晩年、周囲に同性愛者であることを打ち明け、テレビや新聞で取り上げられたことで「90代のゲイ[4]」としても知られる。
来歴
要約
視点
1929年(昭和4年)、香川県香川郡川東村(現在の高松市)にて地主で医者の父とその妾の間に生まれる[2][5][6][7]。私生児であったことから父に会ったのは1度のみであり、働きに出る母に代わって祖母に育てられた[6]。12歳の時、男性教師に初恋を抱いたことで自身がゲイであることに気づく[2]。高等小学校の成績は良かったものの私生児であったことから旧制中学には行けず、通信士としての教育を受けたのちに14歳で満州国新京に渡り満州電信電話新京中央電報局で働いた[2][5][7][8][9]。終戦は新京関東軍司令部通信軍属の通信士として迎える[2][3][8]。引き揚げ船に乗って日本に戻ったのは1946年(昭和21年)9月であり[9]、高松電報局などに勤めたのち大阪に移り住んで仕事を転々とした[2][3][8]。身の上話になった時になぜ結婚をしないのかと聞かれることが嫌で職場の人間と距離を置き、同性愛者の自分が近くにいると迷惑と考え親族とも疎遠となっていったという[3]。そんな長谷が打ち込んだのが詩作や小説であった[10]。長谷康雄の名義で詩や小説を書き、1964年(昭和39年)に第4回現代詩手帖賞を受賞したほか、詩集の刊行や仲間と同人誌『日本伝統派』の発行も行った[1][3][11]。
50代の頃には大阪ゲイ・コミュニティ(OGC)に参加し、1991年(平成3年)に公開されたドキュメンタリー映画『らせんの素描』に出演している[2]。この映画を監督した小島康史は毎日新聞の取材で「理解しようとする人には話しやすい雰囲気で、孤独ではなく陽気で社交的だった」とする一方で「出自やセクシュアリティーを理由に自分の正体をさらせない、さらしてはいけないという印象もあった」と語っている[2]。また当時はトランスジェンダーという言葉が一般的でなかったことから小島は「自分の心は女で男に愛されたいと話す長谷さんと、男として生まれて男に愛されたいと話すOGCのメンバーとの間で認識の違いがあり、居心地が悪そうでもあった」とも語っている[2]。
定年を迎えた後も本や詩を書き続けたが、80歳を過ぎた頃から新しいものが書けなくなっていた[5]。ちょうどその頃、2018年(平成30年)に長谷は大阪市西成区を中心に活動する紙芝居劇団「むすび」に出会う[5]。生き生きと役を演じる同年代の人々がいることを知ったことで「隠し事をせずにこの人たちと残りの人生を楽しみたい」と思った長谷はゲイであることを打ち明けた上で、共に活動したいと伝える[5][6][9][10][12]。そして長谷は活動のためにそれまで住んでいた東大阪市から西成区釜ヶ崎へ移り住む[5][6][10][12]。女装にチャレンジするなど、90代のゲイとしての活動は次第にテレビ番組や新聞に取り上げられることとなる[3][9]。2024年(令和6年)に長谷の半生を描いたドキュメンタリー映画、『94歳のゲイ』が公開された際には舞台挨拶のため初めて上京し、東京レインボープライドが主催するプライドパレードにも参加した[3][13][14]。同年5月14日には同志社大学に招かれ講演を行うなど精力的な活動を続けていたが、同年11月10日に心不全のため西成区の自宅で死去する[15]。95歳であった[15]。
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著書
いずれも長谷康雄名義
- 花(1959年、再現社、国立国会図書館書誌ID:BB03345972)
- 母系家族(1964年、思潮社、国立国会図書館書誌ID:BB08321337、doi:10.11501/1361963)
- 受難(1975年、自費出版、国立国会図書館書誌ID:032404459)
- 阪神ファン(1994年、編集工房ノア、国立国会図書館書誌ID:000002329301)
- 私生子(2000年、近代文藝社、国立国会図書館書誌ID:000002871326)
出演
脚注
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