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間重富

江戸期の天文学者 ウィキペディアから

間重富
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間 重富(はざま しげとみ、宝暦6年3月8日1756年4月7日) - 文化13年3月24日1816年4月21日))は、江戸期天文学者。号は長涯(ちょうがい)。寛政の改暦に功績があった。[1]

概要 間重富, 生誕 ...
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間長涯天文観測の地石碑

略歴

宝暦6年(1756年)3月8日、大坂長堀富田屋町の北詰(現・大阪市西区新町2丁目)で、質屋を営む羽間屋の第六子として生まれる。蔵が11あったことからも「十一屋(といちや)」と呼ばれた裕福な家業を継ぎ、通称は十一屋五郎兵衛(7代目)[2]

彼の時代に蔵が15に増えたので「十五楼主人」とも号した[3]

少年の頃から天文学に興味を持ち、天学塾・先事館の麻田剛立に入門したのは天明7年(1787年)の頃とされている。[4]

重富は質屋を営むかたわら、自宅に観測用の高台を設け、天体の観測に励んだ。また、観測の精度を高めるため、自ら考案した様々な観測機器を職人に作らせ、天文暦学の発達に貢献した。現存する最古の観測記録は、寛政元年(1789年)10月1日の日食である。[5]

寛政7年(1795年)、高橋至時と幕府から江戸に招かれ寛政の改暦事業に参加した。彼らは観測機器により正確な天体の運行を観測するとともに、麻田剛立の理論や「暦象考成」を参考にして、「歴法新書」を編纂。これを元に寛政10年(1798年)、「寛政暦」が施行された。この功績により、幕府の天文方と同格の待遇を受け、苗字を名乗ることを許されて間と改めた。また江戸では高橋至時とともに伊能忠敬の指導を行っている。重富が考案した観測機器は、日本地図を作成する伊能忠敬らの大いなる助けになった[6]

その後大阪に戻り、北堀江・富田屋橋に英国製の観測機器を備え、天体観測や陸地測量を続けた。息子の間重新(はざましげよし)も天体観測を行い、同家は明治維新に至るまで、大坂で多くの観測記録を残した。天明8年(1788年)、蘭方医小石元俊と共同で市井の傘職人だった橋本宗吉を後援し、江戸へ遊学させる[7]。橋本宗吉は関西蘭学の祖と呼ばれ、重富は大坂町人社会の中に蘭学、科学の繋がりを構成することに貢献した[6]

大正8年(1919年)、従五位を追贈された[8]

重富の関係資料は「羽間文庫」として収蔵されていたが、現在は大阪市の博物館・図書館へ寄贈され、天文学史研究の貴重な資料として活用されている。この資料群の一部は、平成28年(2016年)に「間重富関係資料」として、国の重要文化財に指定された[9][10]

昭和35年(1960年)、富田屋橋南詰跡に、「間長涯天文観測の地」と刻まれた石碑が大阪市によって建てられた。その後、長堀川の埋め立ての影響で移設し、現在では長堀グリーンプラザ内にその姿を見ることができる[11]

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著書

  • 算法弧矢索隠[12]
    • 享和元年(1801年) 1冊
    • 数学の論文。円に関する原理の考察。
  • 易法考[12]
    • 文化5年(1808年) 1冊
    • 日時計に関する小論
  • 垂球精義[12]
    • 文化2年(1805年) 1冊
    • 垂揺球義の原理と惑星運航原理との考察
  • 星学諸表[13]
  • 天地二球用法評説

実測図

  • 山陽道実測図[14]
    • 間重富監修
    • 享和2年(1802年)

観測機器

観測技術面での才能を発揮、多くの観測機器を考案・改良した[15]

  • 天球儀
    • 江戸後期 1台
  • 渾天儀(竹製)
    • 江戸後期 1台
  • 渾天儀(黄銅製)
    • 江戸後期 1台
  • 反射式望遠鏡

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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