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関口志行

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関口志行
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関口 志行(せきぐち しこう、1882年明治15年〉5月9日[2][3][4][5] - 1958年昭和33年〉12月21日[6][4][5])は、日本政治家弁護士衆議院議員立憲民政党)、前橋市長群馬県会議員俳人としても知られ、号は雨亭

概要 生年月日, 出生地 ...
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経歴

群馬県新田郡木崎町[2][7][4][5]大字赤堀[3][8](現在の太田市新田赤堀町)に、父貞作、母いすの長男として生まれる[3]1900年明治33年)群馬県中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)を卒業[3][7][4][5]1903年(明治36年)に旧制第二高等学校を卒業[3][7]1906年(明治39年)京都帝国大学法科大学英法科を卒業した[9][10][3][7][4][5]文部省に入省するが、1年で退官[9][3]1909年(明治42年)、司法官試補となり、前橋地方裁判所に勤務した[9][3][8]。やがて判事に昇進し、1911年(明治44年)[注釈 1]には甲府地方裁判所に異動するが、1913年大正2年)に退官した[9][3][8][7][4][5]。その後、前橋市で弁護士事務所を開業[6][9][3][8][7][4][5]

1914年(大正3年)前橋中学校教授嘱託となり1923年(大正12年)まで在職[3]

1923年(大正12年)と1927年昭和2年)の2度、群馬県会議員に当選[3][8][7][4][5]立憲民政党群馬支部幹事長として活躍した[3][8]

1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした[3]

1947年(昭和22年)4月5日、初代公選前橋市長に選出され、1958年(昭和33年)5月31日に病気で辞職するまで3期11年在職した[4][5]

市長在職中の1950年(昭和25年)、市営競輪場を開設[4][5]1952年(昭和27年)前橋市立工業短期大学を設立し初代学長に就任[4][5]。市長在職中に県市長会長、戸籍事務協議会長も務めた[7][4][5]

ほかに都市計画地方審議会委員、群馬弁護士会懲戒委員、前中同窓会長、県監査委員などを歴任[3][8]

雨亭の号で俳句をよくし、松根東洋城に師事[7][4][5]、「いなのめ会」の幹事として活動した[8]臨江閣の「世念を捨てしに非ず竹植うる」[11]など前橋市内の4か所に句碑が建つ[8][7]。群馬県俳句作家協会長[7][4][5]1953年(昭和28年)の群馬大橋竣工に際しては「秋晴れや群馬大橋弧を連ね」と詠み祝辞としたことが知られている[7][4][12]囲碁も3段の段位を有した[3][7]

1958年(昭和33年)、藍綬褒章受章[3][4][5]。同年12月21日、胃潰瘍で死去[3]。戒名は誠徳院殿志行雨亭大居士、墓所は太田市新田木崎町曹洞宗大通寺[3][4][5]。没後『雨亭句集』が刊行された[3][8][7]

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脚注

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参考文献

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