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関戸由義

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関戸 由義(せきど よしつぐ、1829年文政12年〉10月25日 - 1888年明治21年〉2月3日)は、明治期に神戸の土地開発・売買・創業などを官吏・私人として行った人物。

来歴

  • 1829年(文政12年) - 越前国足羽郡下呉服町で、父・薬種商 第四代 輪違 平兵衛、母・福井藩 藩医 第四代 山本 正伯に乳母奉公した女性(名不詳)の間に生まれる。幼名は良平。
  • 慶応年間に江戸へ移住し、医師として関戸由義と自称する。
  • 1868年(明治元年)3月上旬 - 横浜港よりサンフランシスコへ密航。帰国後、兵庫県洋学校設立建白。
  • 1869年(明治2年)12月4日 - 民部省通商少佑。
  • 1871年(明治4年)3月24日 - 兵庫県外務局勧業課少属。
  • 1871年(明治4年)5月 - 兵庫県権大属 北風 正造と船舶無断売買問題で軋轢、後和解。
  • 1872年(明治5年)1月8日 - 関戸良平の名で前福井藩主松平慶永に「唐筆1箱、賀茂川千鳥1箱」献上。
  • 1872年(明治5年)4月 - 五厘金紛争を解決。
  • 1872年(明治5年)9月16日 - 神戸市中新道取開掛 兼 町会所掛。
  • 1872年(明治5年)11月 - 福澤諭吉湊川神社前土地を3400両で斡旋。
  • 1873年(明治6年)- 諏訪山山麓に鉱泉開削。
  • 1877年(明治10年)12月28日 - 神戸商業講習所開設のため、神戸市北長狭通四丁目邸内の2階建洋館を校舎として兵庫県に提供(夜間部は兵庫商人が集積する兵庫津七宮神社内に開設)。
  • 1881年(明治14年)8月11日 - 再三の福沢諭吉の催促で交詢社兵庫支社に加入。
  • 1888年(明治21年)8月17日午前9時 - 神戸市北長狭通四丁目邸で死去した。
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出典

  • 松田 裕之 『港町神戸を造った男 ≪怪商 関戸由義の生涯≫』
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