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闘争出版社
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『闘争出版社』(ドイツ語: Kampfverlag)とは、1926年3月グレゴール、オットー・シュトラッサー兄弟らによって設立された国家社会主義ドイツ労働者党の出版社である。
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概要
かつてナチス左派の影響下にあったナチ党の機関紙「国民社会主義通信(NS書簡)(Nationalsozialistische Briefe)」がバンベルク会議の後、グレゴールの私的な見解を伝えるジャーナルと化したうえ正式に党を代表するジャーナルではなくなった為、新たに出版社を設立することとなった。
1926年3月、兄弟はグレゴールがランツフートの薬局を抵当に入れて調達した資金とオットーがヘルトリングにあった会社をやめた際に得た退職金をもとに、「闘争出版社(Kampfverlag)」を設立し、ミュンヘン・ナチの息のかかった「フランツ・エーア出版社」に対抗して宣伝活動を続けていた。
闘争出版社はハンマーと剣とハーケンクロイツが交差した図柄を商標としていた。闘争出版社は、さまざまの単行本の他にも
「ベルリン労働者新聞(Die Berliner Arbeiter ‐ Zeitung)」
「国民社会主義者(Der Nationale Sozialist)[注釈 1]」
「ザクセン物見(Der Sächsische Beobachter)」
「マルク・ブランデンブルク物見(Der Märkische Beobachter)」
「ライン・ヴェストファーレン労働者新聞(Die Rheinisch Westfälische Arbeiter ‐Zeitung)」
「こぶし(Die Faust)」
等の週刊誌や日刊紙を次々に出し、当時のジャーナリズム界を牛耳っていたフーゲンベルク・コンツェルンに匹敵するジャーナリズム王国を打ち立てたものとして評価を受け、ナチス左派のみならず、「旧社会主義者(Altsozialisten)」、「ブント・オーバーラント」 (de)、「人狼団(Wehrwolf)」、ブント青年団などの、国民革命派がその論陣を張る場を提供した。
国会議員で人種派から別れてナチに鞍替えしたレーヴェントロー伯(de)や、シュテール、モサコーフスキー[注釈 2]、エルンスト・フォン・ザロモンの兄ブルーノー・フォン・ザロモン (de)[注釈 3]、ヘルベルト・ブランク、ルドルフ・ユング (de)らが闘争出版社に関係していた。
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論争
こうした派手な出版活動はライバル誌であるゲッベルスの攻撃誌との激しい対立を生み双方の読者間の乱闘騒ぎにまで発展し、シュトラッサー兄弟は闘争出版社をベルリンからブランデンブルク管区に属すレーニッツに移した。 しかし、ゲッベルスのみならず、ヒトラーにとって目障りで脅威の存在となっていたことはいうまでもなく、1930年1月、ヒトラー、グレゴール、オットー、ヒンケル(de:Hans Hinkel)の会談がヘスやアマンも交えて開かれた。
ヒトラーは闘争出版社の活動を自粛するよう申し入れ、今度は出版社を買い取る意向を示した。軟化した態度を示すグレゴールは示談に乗ろうとしたが、オットーは激しく反対し、ヒトラーと闘鶏の如く対峙した。二人の会話は平行線を辿り、結局話は不調に終わった。
1930年4月、ザクセンの金属労働者のスト問題をめぐって闘争出版社の「ザクセン物見」がスト支持の態度を表明したのに反して、財政やフーゲンベルクや鉄兜団の反動保守勢力と連携を深めていたヒトラーが、ストに反対しなければナチへの資金援助を打ち切るとの電報を受け取ってオットーにスト支持の撤回を迫ったことはオットーとヒトラーの仲を更に嫌悪化させた。
5月21日・22日の2日間に渡りサンスシー・ホテルにて再び行われたが、二人の話し合いは1月の会談と同様またもやもの別れに終わった。
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脱党声明、そして終焉
要約
視点
1930年7月3日、オットーはもはやこれまでとヒトラーに最後通牒を送り、ヒトラーがこれを黙殺したのは言うまでもない。 こうしてオットーを中心とした党内左派グループは1930年7月4日 『ソーシャリスト、ナチ党を去る(Die Sozialisten verlassen die NSDAP.)』 という声明文を出して党を去っていった。
彼らと心情を同じくするとはいえ、グレゴールをはじめ、一部のナチス左派の幹部は党内にとどまった。
読者、党同志、友人諸君!数ヶ月以来我々は深い懸念を抱きながら党の発展についていったが、党がますます頻繁にますます重要な問題において国民社会主義、ナツィオナール・ゾツィアリスムスの理念に反してゆく姿を我々は憂慮の念を募らせながら認めざるを得なかった。
外交、内政、とりわけ経済政策の数多くの問題において、党は我々が唯一の綱領と目した25ヵ条とますます折り合いにくい態度をとってきた。党のブルジョワ化が増大してゆくという予感、原則に対して戦術的契機を優先させるという予感、かくて運動の自己目的と化し理念の綱領的要求よりも自己の利益を重んずる党機構の官僚化が急速に進んでいるという恐るべき認識がますます重大性をおびてきた。
「我々は国民社会主義を意識的に反帝国主義運動として理解し、そのナショナリズムは、多民族や他国に対するなんらかの支配的傾向を伴うことなくドイツ国民の生活及び発展の維持と確保に限られるものである。それ故我々にとっては、国際資本主義と西欧帝国主義によって行われたロシアに対する介入戦争の否定はドイツ外交政策の必要性からも我々の理念からも生まれる自明の要求であったし、現在もそうである。」
「それ故我々は、ますます公然と介入戦争に与する党首脳部の態度を理念に反するものでありドイツ外交政策の要求からいっても有害なものであると感じた。」
我々はそれ故、公然とイギリス帝国主義に与してインド独立闘争に反対する党首脳部の政治を国民社会主義の理念的前提ならびにドイツの実益に矛盾するものと感じたのである。」
「我々にとって、イギリスの支配と資本主義の搾取から逃れる『インド独立闘争 indischen Unabhängigkeitskampf』に共鳴することは必要であったし、現在も必要であり、この必要は被抑圧民族が搾取的略奪者に対して行うすべての闘争に対する共感から生まれると同時に、ヴェルサイユの契約力を弱体化させることが全てドイツ解放政策に有利に働くという事実からも生まれる。」
「我々のナショナリズム理念が必然的に導くところ、我々が自己の為に要求する民族独立性実現の権利はあらゆる多民族や他国民にも帰属する(この場合、「文化的施し」というようなリベラリズムの概念は我々の感知せぬところである)。
(脱党声明文「ソーシャリスト、ナチ党を去る」より一部抜粋)
同年10月1日を以て闘争出版社は閉鎖された。
脱党名簿
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関連項目
参考文献
- 八田恭昌『ヴァイマルの反逆者たち』世界思想社、1981年 ISBN 978-4790701972
脚注
注釈
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