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陸亘
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経歴
恵陵台令の陸持詮の子として生まれた。
書法と条理によって集賢殿正字・華原県尉に任じられた。元和3年(808年)、制挙に応じて、万年県丞となった。京兆府兵曹参軍から太常寺博士に任じられた。太常寺に礼生の孟真という者がいて、長らく礼事にたずさわっていたため、礼官も及ぶことができず、孟真を頼みにしていた。元和7年(812年)、李恒が皇太子に冊立されると、儀註の編纂に孟真が参与しようとした。陸亘は孟真を笞打って、このことから礼儀を胥吏の専任にしないようになった。虞部員外郎から鄧州刺史として出された。のちに入朝して戸部郎中・秘書少監・太常寺少卿となり、兗州・蔡州・虢州・蘇州の刺史を歴任した[1][2]。大和3年(829年)[3]、越州刺史・浙江東道団練観察等使に転じた[1][2]。大和7年(833年)[4]、宣歙観察使となり、御史大夫を加えられた。大和8年(834年)9月、死去した。享年は71。礼部尚書の位を追贈された[1][2]。
禅宗との関わり
宣歙観察使時に南泉普願に寺院を提供し、その布教を助けた。禅籍には陸大夫として登場する。
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脚注
伝記資料
参考文献
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