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陸亘

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陸 亘(りく こう、764年 - 834年)は、唐代官僚は景山。本貫蘇州呉県[1][2]

経歴

恵陵台令の陸持詮の子として生まれた。

書法と条理によって集賢殿正字・華原県尉に任じられた。元和3年(808年)、制挙に応じて、万年県丞となった。京兆府兵曹参軍から太常寺博士に任じられた。太常寺に礼生の孟真という者がいて、長らく礼事にたずさわっていたため、礼官も及ぶことができず、孟真を頼みにしていた。元和7年(812年)、李恒皇太子に冊立されると、儀註の編纂に孟真が参与しようとした。陸亘は孟真を笞打って、このことから礼儀を胥吏の専任にしないようになった。虞部員外郎から鄧州刺史として出された。のちに入朝して戸部郎中・秘書少監・太常寺少卿となり、兗州蔡州虢州・蘇州の刺史を歴任した[1][2]大和3年(829年[3]越州刺史・浙江東道団練観察等使に転じた[1][2]。大和7年(833年[4]、宣歙観察使となり、御史大夫を加えられた。大和8年(834年)9月、死去した。享年は71。礼部尚書の位を追贈された[1][2]

禅宗との関わり

宣歙観察使時に南泉普願に寺院を提供し、その布教を助けた。禅籍には陸大夫として登場する。

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脚注

伝記資料

参考文献

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