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陽侯令璆

奈良時代の貴族 ウィキペディアから

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陽侯 令璆(やこ の れいきゅう/りょうぐ)は、奈良時代貴族(毘登)のち忌寸但馬守陽侯真身の子。官位従五位下豊後介。名は玲璆とも記される。

概要 凡例陽侯令璆, 時代 ...

経歴

天平感宝元年(749年東大寺大仏建立に際して、令珍ら兄弟3人と共に千貫の貢銭を行い、令璆は従八位上から従五位下に叙せられた[1]

天平宝字3年(759年越後守に任ぜられる。天平宝字4年(760年渤海使の高南申を渤海に送り届けて帰国し、内位の従五位下に叙せられる[2]。天平宝字7年(763年内匠助

その後、神護景雲2年(768年)一族64名が史(毘登)姓から忌寸姓に改姓した際、弟の人麻呂が一族の代表とされているなど[3]、令璆は兄たちの没後に存命に関わらず一族を代表する立場になく、加えて位階を剥奪された形跡があることから、淳仁朝から称徳朝にかけて政争に巻き込まれたか。

宝亀9年(778年) 外従五位下に復され、宝亀11年(780年尾張介天応元年(781年)尾張守、天応2年(782年豊後介光仁朝末から桓武朝初頭にかけて地方官を歴任した。

官歴

続日本紀』による。

脚注

参考文献

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