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青木宣純
日本の陸軍軍人 (1859-1924) ウィキペディアから
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青木 宣純(あおき のぶずみ、安政6年5月19日[1][2](1859年6月19日) - 大正13年(1924年)12月12日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[3]。最も初期の「支那通軍人」[要出典]。通算13年の中国生活を送った。
経歴
佐土原藩士・青木新蔵の長男として生れる[1]。陸軍幼年学校を経て、明治10年(1877年)5月、陸軍士官学校に入学[1]。明治12年(1879年)12月、砲兵少尉に任官し、翌年12月、陸士(旧3期)を卒業[1][2][4]。
明治14年(1881年)4月、山砲兵第2大隊付となり、陸士教官、参謀本部出仕などを経て、明治17年(1884年)10月から同20年(1887年)12月、清国差遣となり、広東、北京に駐在[1]。明治21年(1888年)3月、近衛砲兵連隊付となり、陸士教官、参謀本部第2局員、ベルギー留学などを経て、明治27年(1894年)8月、第1軍参謀に発令され、翌月から明治28年(1895年)5月まで日清戦争に出征した[1]。
明治28年(1895年)5月、参謀本部第2局員に就任し、明治30年(1897年)10月から同33年(1900年)3月まで清国公使館付となる[1][4]。袁世凱の要請で、新建陸軍の軍事顧問として、軍の指導、育成にあたった[要出典]。帰国後、参謀本部付となり、第5師団司令部付、清国公使館付、参謀本部員を歴任し、明治35年(1902年)12月、砲兵大佐に昇進し野戦砲兵第14連隊長に就任[1][4]。明治36年(1903年)11月、清国公使館付となった[1][4]。この頃、京師警務学堂に勤めていた漢学者の中島竦と知り合い、後に蒙古研究の編纂を依頼している[要出典]。
日露戦争では、明治37年(1904年)7月に満洲軍総司令部付として北京に駐在し[1][2][4]、配下に特別任務班と呼ばれる組織を従え、馬賊使用や鉄道・電線破壊工作に従事した[要出典]。明治38年(1905年)1月、清国公使館付となり、明治40年(1907年)11月、陸軍少将、さらに大正2年(1913年)8月、陸軍中将に進み旅順要塞司令官に就任した[1][2][4]。
大正4年(1915年)12月、参謀本部付となり、大正6年(1917年)1月から同12年(1923年)1月まで北京政府応聘として黎元洪の軍事顧問を務めた[1]。この間、大正8年(1918年)8月、予備役編入[4]、大正10年(1921年)4月、後備役となった[1]。
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栄典
- 位階
- 1884年(明治17年)7月8日 - 従七位[5]
- 1891年(明治24年)7月6日 - 正七位[6]
- 1894年(明治27年)12月5日 - 従六位[7]
- 1903年(明治36年)3月30日 - 従五位[8]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 正五位[9]
- 1913年(大正2年)1月30日 - 従四位[10]
- 1918年(大正7年)2月28日 - 正四位[11]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[12]
- 1893年(明治26年)11月29日 - 勲六等瑞宝章[13]
- 1895年(明治28年)
- 1897年(明治30年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[16]
- 1901年(明治34年)10月1日 - 勲四等旭日小綬章・功三級金鵄勲章[17]
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[18]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章・旭日中綬章・明治三十七八年従軍記章[19]
- 1914年(大正3年)5月16日 - 勲二等瑞宝章[20]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[21]
- 1918年(大正7年)9月29日 - 勲一等瑞宝章[22]
- 1924年(大正13年)12月12日 - 勲一等旭日大綬章[23]
- 外国勲章佩用允許
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人物
親族
脚注
参考文献
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