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項燕
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項 燕(こう えん、Xiàng Yān、? - 紀元前224年または紀元前223年)は、中国の戦国時代末期の楚の大将軍。下相(現在の江蘇省宿遷市宿城区)の人。西楚の覇王項羽とその従弟項荘の祖父にして、項梁、項伯の父。
項姓とは祖先が項に封ぜられていたのが由来とされる[1]。唐代の『元和姓纂』や『広韻』によると、項燕は周朝に分封された同宗の姫姓項国の後裔であり、春秋時代に項国が魯国によって滅ぼされた後、その国名を姓としたとされる。
生涯
項氏は代々楚の将軍を務めていた。
負芻3年(紀元前225年)、秦の李信・蒙恬が20万の軍で楚を攻めた。楚は序盤は劣勢であったが後に反攻に転じ、秦軍を覆没させる大勝を収めた[2]。中国史学者の楊寛は 『史記』陳渉世家の「 項燕爲楚将、數有功、愛士卒。 (項燕は楚の将となって、しばしば功があり、士卒を愛した)」という記述を取り上げて、 このとき楚軍の指揮を執って李信の軍を破ったのは項燕であると推測している[3]。しかし、李信の軍を破った楚軍の指揮官が項燕であるという記述は歴史書や一次資料などには一切見当たらない。
負芻4年(紀元前224年)、王翦と蒙武が60万の大軍を率いて再び楚を攻めた。王翦は堅守して楚軍と交戦しないよう命じ、ついに楚軍が東へ退却すると、王翦はこれを追撃して楚軍を大いに破り、楚王負芻を捕虜とした。項燕は楚の公子にして秦の重臣の昌平君を楚王として擁立し[4]、淮南(淮河以南)で抗戦を続けた[5][注 1]。
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死後
紀元前209年に発生し、のちに秦朝が滅んだ契機となった陳勝・呉広の乱の指導者陳勝・呉広は自らの名を扶蘇・項燕と詐称し、天下に反秦を呼びかけた。これは楚の英雄の項燕が民衆に広く慕われており、かつ項燕の死について民は半信半疑だったためである[7]。
かつて項燕の軍で視日(日時の吉凶や行動を占う職[8])を務めていた周文は張楚の将軍となり、秦朝を攻めて函谷関を突破し、国都咸陽に迫ったが章邯に敗れて自刎した[7]。
項燕の遺志はその子孫に受け継がれ、子の項梁が会稽郡で挙兵して反秦の旗を掲げ、孫の項羽が反秦勢力の中核となって秦軍主力を撃破し、紀元前206年に秦朝を完全に滅亡させた[1]。
脚注
関連項目
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