トップQs
タイムライン
チャット
視点

王翦

中国戦国時代の秦の将軍 ウィキペディアから

王翦
Remove ads

王 翦(おう せん、生没年不詳)は、中国戦国時代将軍。頻陽県東郷(現在の陝西省渭南市富平県北東)の人。王賁の父。王離の祖父。秦王政(後の始皇帝)に仕えた戦国時代末期を代表する名将で、を滅ぼすなど、秦の天下統一に貢献した。白起廉頗李牧と並ぶ戦国四大名将の一人。

概要 王翦, 秦 将軍 ...

生涯

要約
視点

始皇11年(紀元前236年)、桓齮楊端和らと趙のを攻めて、先ず9城を取る。王翦は一人で閼与および橑楊を攻め、それから全ての兵を併せて一軍とした。王翦が軍を率いて18日が過ぎたとき、軍中の食糧が一斗に満たない下級兵を帰還させ、さらに兵10人のうち2人を選抜して精鋭軍を編成し、鄴と安陽を攻め落とした[1]

始皇18年(紀元前229年)、王翦は大軍の指揮を執り、羌瘣楊端和とともに趙を攻めた。王翦は上地(上郡、現在の陝西省楡林市綏徳県)から出兵し、太行山脈の要衝である井陘を抜いて趙に侵攻した。同時に楊端和は河内(黄河中流北岸の地域)の軍を率い、また羌瘣も趙を攻撃し、楊端和は趙の国都邯鄲を包囲した。しかし趙は李牧司馬尚によって守られ、特に李牧は秦軍をたびたび撃退し、桓齮を討ち取った名将だった。李牧を憎んだ王翦は、幽繆王の寵臣郭開に賄賂を与えて反間計を仕掛け、「李牧と司馬尚は反乱を企てており、秦に内通して封地を得ようとしている」と讒言させた。幽繆王はそれを信じ、李牧を斬首し、司馬尚を罷免した。趙は後任に趙葱顔聚を置いた[2][3][4]

始皇19年(紀元前228年)、李牧謀殺の三か月後、王翦は趙軍を急襲し、これを大いに破って趙葱を討ち取った。その後、王翦と羌瘣は趙の東陽(太行山脈以東、泜水から漳水上流の一帯など諸説ある)の地をことごとく平定し、幽繆王と顔聚を捕らえ、趙を滅ぼした(趙攻略)。しかし、趙の公子嘉が亡命国家のを建て、と連合した。王翦は燕攻略のために中山に駐屯した[1][4]

始皇20年(紀元前227年)、燕の太子丹が差し向けた荊軻による秦王政暗殺未遂が起こると、辛勝とともに燕を攻め、燕・代連合軍を易水の西で破った[1]

始皇21年(紀元前226年)、子の王賁と共に燕の国都を攻めた[注 1]。丹の軍を破って薊を攻め落とし、丹の首を得た[注 2]。しかし、燕王喜遼東に逃れ、なお命脈を保った(燕攻略[1]。この年、老病の故をもって将軍を辞して故郷に帰る[1]

始皇23年(紀元前224年)、楚攻略を任じられた李信蒙恬が大敗すると、秦王政より要請を受け、再び将軍として60万の大軍を率いて楚を攻めた。王翦と副将の蒙武は楚軍を大いに破って蘄南(現在の安徽省宿州市埇橋区南)に至り、楚の大将軍項燕を討ち取って楚軍を潰走させた。秦軍は勝勢に乗じて楚の城邑を次々と平定した[5][6]

始皇24年(紀元前223年)、楚王負芻を捕虜とした。楚は滅亡し、秦は楚の領土を三つのに分けた[5][7]

始皇25年(紀元前222年)、南方に出征していた王翦はついに楚の江南の地を平定し、百越の諸王を降して、ここに会稽郡を置いた(楚攻略[1][5]。翌年、秦はを滅亡させて天下を統一した[8]

楚の滅亡の経過については、司馬遷史記』の中で二つの異なる記述が存在し、上記は楚世家・白起王翦列伝・蒙恬列伝および『資治通鑑』等に基づく。同書、秦始皇本紀によると始皇23年(紀元前224年)時点で王翦は河南のから南の平輿までの地を攻略して、負芻を捕虜にしたとされる。その後、項燕は昌平君を楚王として擁立し、淮南(淮河以南)で秦に反旗を翻したが、始皇24年(紀元前223年)に王翦と蒙武はこれを攻めて破り、昌平君は戦死、項燕も自害させて滅ぼしたとなっている。

陳勝・呉広の乱紀元前209年)以前に没したとされる[5]

Remove ads

人物・逸話

要約
視点

『史記』白起王翦列伝に基づく[5]

趙を滅ぼした後、秦の覇業を妨げうるのは、もはや楚のみとなった。その平定に当たり、秦王政は必要な兵力について李信へ意見を求めた。李信は若く勇猛で、かつて数千の兵を率いて燕の太子丹を衍水の中まで追撃して捕らえたことがあり、秦王政は李信を賢勇であると高く評価していた。秦王政の問いに李信は「20万の兵で十分でしょう」と答え、一方で王翦は「60万の兵なくしては不可能です」と答えた。秦王政は「王将軍も老いたな、なんと臆病なことか。李将軍こそが勇壮であり、彼の言葉こそが正しい」と言い、李信と蒙恬に20万の兵を与えて楚攻略を命じた。王翦は自らの意見が採用されなかったため、老病の故をもって故郷の頻陽に隠退した。しかし、楚へ侵攻した秦軍は大敗を喫した。

秦王政は敗戦の報を聞くと大いに怒り、自ら馬を走らせて頻陽まで赴き、王翦のもとを訪れた。そして詫びて、「私が将軍の策を用いなかったばかりに、李信が秦軍を辱める結果となった。今や楚軍が日々西進していると聞く。将軍は病を患っているとはいえ、どうか私を見捨てはしないでくれ」と復帰してくれるよう懇請した。これに王翦は「どうしても私をお用いになるのであれば、60万の兵がなければなりません」と条件を出し、秦王政は「すべて将軍の計に従おう」と了承した。

こうして王翦は60万の大軍を率いて出陣し、秦王政自ら覇上(現在の陝西省西安市白鹿原)まで見送った。出発に際し、王翦は多くの良田・屋敷・園池を賜りたいと願い出た。「将軍はこれから征くというのに、なぜ貧しさなどを気にかけるのか」と秦王政が問うと、王翦は「私はこれまで大王のために数々の戦功を挙げながら、ついに封侯されることはありませんでした。ゆえに大王が私を信任してくださっている今この時にせめて子孫のために土地を賜りたく存じたのです」と答え、秦王政はこれを聞いて大笑した。王翦は函谷関に至った後も使者を通じて5度に渡って請願した。周囲の者は「将軍の乞貸は度を越している」と眉をひそめたが、それに対して王翦は「そうではない。秦王は粗暴で、人を容易には信用しないお方だ。いまや秦の全ての兵士は私一人に委ねられている。だからこそ私は、田宅を多く求めて子孫のための財産とすることで、私に野心などないと示すのだ。秦王に私の忠誠を疑わせるようなことがあってはならぬだろう」と返した。

楚は王翦が大軍を率いて迫ってくると聞き、国内の兵力を総動員してこれを迎え撃とうとした。王翦は国境付近に到着すると、堅固な陣を敷いて守りに徹し、決して戦おうとはしなかった。王翦は日々、兵を休養させ、入浴をさせ、食事も豊富に与えるなど手厚く労い、自らも兵と同じ物を食した。しばらくして王翦は人を陣中に送り、兵たちが何をしているかを調べさせた。その者は「石を遠くまで飛ばして競っております」と答えると、王翦は「我が兵は戦える状態にある」と判断したという。王翦は楚軍に再三戦いを挑まれても応じず、ついに東へ退却したのを見計らうとただちに全軍を挙げて追撃し、精兵でもって楚軍を大いに破った。王翦は更に楚へ侵攻し、翌年には楚を滅ぼした。

王翦は楚の平定後も始皇帝に疑いを持たれることなく、天寿を全うすることが出来たと言われる。

司馬遷は「王翦の功績は卓越しており、始皇帝は彼を師とまで仰いだが、その傍らで輔佐して徳政を打ち立て、国家の基盤を固めることはせず、始皇帝に迎合したまま没した。孫の王離が項羽に敗れて捕虜となったのも当然のことだろう」と批判し、白起と共に完全無欠ではなく、「尺にも短所があり、寸にも長所がある(一長一短)」と評している。

Remove ads

顕彰

建中3年(782年)、顏真卿は皇帝徳宗に、歴史を代表する六十四人の名将を追封し廟を建てて祭祀を行うよう提案した。そうして定められた武廟六十四将には王翦も列せられている。同時代の選出された名将は孫臏田単趙奢、廉頗、李牧である。

宣和5年(1123年)、も唐代の慣例に従って古の名将を祀る廟を設けたが、その七十二名の名将の中にも王翦は含まれている。

王翦墓

王翦の墓所は、陝西省渭南市富平県道県鎮から5kmほど離れた薊県村永和宝の北に位置している。墓は長方形で、南北の長さ40m、東西の幅30m、高さ9mある。墓の北西200mの地点には南北に並んだ6基の小塚があり、これは六国の王侯の衣冠・文書などを納めたものと伝えられている。これは王翦の天下統一の戦功を顕彰するために築かれたものとされる。1956年に王翦墓は陝西省人民委員会によって重点文物保護単位に指定された[9]

王翦と『鋒劍春秋』

要約
視点

清代神怪小説『鋒劍春秋』(別名『後列国志』『万仙斗法興秦伝』)における核心的な敵役。史実の秦将・王翦を基にした神魔化キャラクターであり、小説中では截教陣営の修士として「秦による六国統一」の天命を執行する。師は截教の新しい教主・海潮老祖(かいちょうそうそ)。[10]

神魔化設定

清代神怪小説『鋒劍春秋』(1804年刊)の核心的敵役。史実の秦将を基に、九天応元雷声普化天尊(雷帝)の分霊転生体であり、截教の新しい教主・海潮老祖の弟子という二重の神魔設定を持つ。妻は同門の毒仙廉秀英(れんしゅうえい)。秦国大元帥として孫臏率いる六国仙術勢力と対決し、最終的に廉秀英戦死を契機に元神自爆で形神滅却する。[11]

雷帝分霊

雷部最高神の分霊転生という設定により、九天普化神雷(五色雷光で仙体・元神を同時攻撃)や紫霄神雷(天罰級雷劫)を行使。第28回で本源覚醒時には「雷声普化天尊」の虚影が出現し、第60回の自爆では雷部星宿が墜落する天地異変を引き起こした。[12]

截教修士

海潮老祖より授かった偽・誅仙四剣や五雷誅仙陣を駆使。師より「秦による統一は天命」と教え込まれるが、その手段は無差別殺戮を伴い「天道執行の矛盾」を体現する。[13]

廉秀英との関係

三百年の共修歴を持つ霊的伴侶。第34回で海潮老祖が「賢伉俪」と明言。

廉秀英(れん しゅうえい)は、清代小説『鋒剣春秋』(別名『後列国志』)に登場する伝説的女性武将。戦国末期の趙国武将・廉杰の娘であり、秦の名将・王翦の妻となる。驪山老母に師事し仙術と刀法を修得したとされ、小説第24回において師命により金光陣を破るため父を斬る悲劇的エピソードで知られる。史実的根拠はなく、『薛家将』『楊家将』の女将軍モチーフを戦国時代に転用した創作キャラクターとされる。[14]

戦術統合

廉秀英の幻毒術と王翦の雷法が融合した合体技「幻雷劫界」(幻覚空間内での連続雷撃)。

「羅刹雷毒」(仙体溶解毒+元神灼焼雷の複合攻撃)で孫臏軍を壊滅寸前に追い込む。

悲劇的結末

第57回で廉秀英が袁達に討たれ「来世再会」の遺言を残す。これが王翦の狂乱自爆を誘発し、夫婦そろって消滅する[15]

能力体系

雷帝本源術

九天普化神雷:五色雷光による広域攻撃(第28回)。

雷劫召喚:紫霄神雷降臨(自傷リスク有/第37回)。

雷遁瞬移:光速移動・物質透過(第19回)。

截教仙術

法宝操作:偽・誅仙四剣、師匠・海潮聖人より授かる。仙術防御陣を貫通する「破法」属性を持つ。剣光一閃で神仙級の敵の肉体・元神を同時損傷(例:孫臏の護身陣を破壊)。

鑽天箭(さんてんせん)、専用仙弓「震天弓」と併用、追尾型射撃法宝、射出後、敵の五行遁術(土遁・水遁等)を自動追尾。

護体金光(ごたいこんこう)、常時発動型防御仙術。体内仙気が自動的に金光を生成。通常法宝攻撃(風火輪・飛剣等)を無効化[16]

大陣展開:雷祖神力と融合した「五雷誅仙陣」(第53回)。

召喚術:雷甲をまとった天兵、妖獣軍団の使役。

文学的革新性

夫婦敵役の初登場

感情的深みを持つ悪役像で、単独悪役の定型を打破。

歴史改変の論理構築

王翦滅亡後も秦が統一を達成する理由を「仙凡隔離ルール」(第59回)で説明。神魔退場後は李斯率いる法家勢力が歴史を推進するとの独自解釈を示す[17]

特記事項

海潮老祖の謀略:王翦の雷祖転生を認知し「天命執行」の道具として利用。

五雷誅仙陣の真実:廉秀英の毒術で強化された陣は、雷祖神力により天道規則を一時歪めた。

雷部星隕の描写:自爆時の天変地異は、分霊消滅が天界秩序に与えた打撃を示す象徴的表現。

雷祖分霊・截教順天化・夫婦敵役の三大設定は『封神演義』体系とは完全に独立した『鋒劍春秋』独自の創作。これらは清代神魔小説の大衆化・世俗化傾向を反映している。[18]

Remove ads

子孫

死後、子の王賁が跡を継いだ。王賁の子に王離がいる。

新唐書』宰相世系表二中によると、王離は秦の武城侯となり、彼には王元・王威という息子がいたという。息子たちは秦の戦乱を避けて山東に移住し、その末裔からは、後世に王吉王駿王崇三国魏王雄王祥王導王敦王羲之らを輩出した。いわゆる魏晋南北朝時代に名を馳せた琅邪王氏である。つまり、琅邪王氏は、王離の末裔とされるのである。ただし、『漢書』王吉伝では王離と王吉の関係について触れておらず、『新唐書』の系図の信憑性には疑問がある。

参考文献

  • 司馬遷史記
  • 原典:『鋒劍春秋』嘉慶9年(1804)刊本
  • 李丰楙『中国神魔小説研究』(1997)/劉倩『鋒劍春秋の神魔改変』(2020)

登場作品

漫画

当初は蒙驁の副将にして、王翦軍を率いている。その後、新たな秦国六大将軍の一人となる。

脚注

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads