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昌平君

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昌平君(しょうへいくん、 ? - 紀元前223年)は、中国戦国時代政治家公子[1]は不明。考烈王の子で、幽王哀王負芻[2]とは異母兄弟であるとされる[3][4]

経歴

相国丞相)に任命される。

秦王政9年(紀元前238年)、嫪毐が背くと、秦王政に昌文君と共に討伐を命じられ、嫪毐を敗走させた[5]

秦王政21年(紀元前226年)、の旧都(秦の南郡)に移された[5]。同年、の旧都新鄭(現在の河南省鄭州市新鄭市)で反乱が発生しており[6]、この事に続いて記述されているため関連した左遷であったと考えられる。

秦王政23年(紀元前224年)、楚攻略を任じられた王翦が楚王負芻を捕虜とし、楚が滅びると、楚将項燕により淮南[7]で楚王に擁立され、秦に反旗を翻した[5][8]

秦王政24年(紀元前223年)、王翦蒙武が楚を攻め、楚軍を破った。昌平君は戦死し、項燕も自殺(あるいは戦死)した[5]

脚注

史料

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