トップQs
タイムライン
チャット
視点

飯星景子

日本の女性タレント、作家 (1963-) ウィキペディアから

Remove ads

飯星 景子(いいぼし けいこ、1963年2月23日[1] - )は、日本タレント小説家。テレビ番組の司会やコメンテーター、ラジオのディスクジョッキーなどを務めた。本名及び旧芸名、飯干 恵子(読み同じ)。

概要 いいぼし けいこ 飯星 景子, 生誕 ...

父は、元読売新聞記者で『仁義なき戦い』の原作者でもある飯干晃一[2]

来歴

要約
視点

大阪府高槻市出身。追手門学院高校在学中に演劇部に所属。1980年、演劇コンクールでの演目「さざんがきゅう」では他の部員2名と合計3人で、9役を演じるという高校演劇では例を見ない作品に出演。飯干は4役を演じ分け、個人演技賞を受賞。なお、この作品は、役者の演技力とテンポのよい脚本・構成が高く評価され、演劇コンクールでは大阪のブロック大会、本大会、近畿大会と勝ち上がり、1981年の全国大会[注 1]で最優秀賞を受賞した[4]。桐朋学園大学短期大学部(現桐朋学園芸術短期大学)芸術科演劇専攻卒業。

テレビ朝日「ウイークエンドシアター」の映画解説を担当し、3年間で150本以上の映画を紹介する。その後『モーニングショー』『紳助・ケントの世界がお呼びです!』『中畑&徳光のスポーツ熱中宣言』などの番組に出演。

1991年7月、『こだわりTV PRE★STAGE』(テレビ朝日)の司会を自ら降り、同年10月1日、所属事務所のオフィス・トゥー・ワンも辞めた[5]。『こだわりTV PRE★STAGE』でスタイリストを務めていたのが統一教会(現・世界平和統一家庭連合)信者の佐藤智春(ちはる、女性)だった。佐藤は占い師の和泉寛志を紹介。和泉の命名により「飯干景子」から「飯星景子」に名前を変えた[6][7][5][8]

1992年3月4日、統一教会の関連団体「アジア平和婦人連合」(世界平和女性連合の前身)は全日空ホテルで総会を開催。教団は飯星を広告塔とするべく、佐藤を介して、飯星に司会を依頼した[6][7][9][10]。仕事を終えたその日の夜、飯星は父親の飯干晃一に会いに行き「一流企業の社長夫人や有名な方がたくさん来ていた。名誉なことだ」と高揚した表情で語った[5]

佐藤を信頼していた飯星はこれをきっかけとして統一教会の勉強会や講習会に通い始めた[11][12]。さらに合同結婚式への参加を希望し、6月7日に教団の「祝福講義」を受講した[7][9]。同年8月25日にソウルで合同結婚式が開かれたが、この年に入信したばかりだったため参加は見送られた。

同年9月19日、大阪空港を発ちロサンゼルスへ向かう[11]。以後、行方不明の状態が続く。9月25日、「今、ニューヨークに着いたところです」とのファックスが父の飯干晃一のもとへ届いた。10月1日、『週刊文春』同月8日号が発売。「娘 飯星景子を奪われた飯干晃一が統一教会に宣戦布告」と題した記事が掲載された [10]。飯干晃一はまたこの日の午後記者会見を開き、娘を取り戻すと宣言するとともに「あの集団は許せない。景子が戻ってきても戦いは続ける」と述べた。

父親の「宣戦布告」を受け、統一教会は飯星を急遽帰国させた。10月4日夜、日本に着いた飯星は実家に戻った。晃一を宥め、とりあえず事態の鎮静化を図ることが教団側の目的だった[13][12]。脱会に向けての晃一の説得が始まり、元信者も交えて2週間の話し合いを行った末、飯星は脱会を決意[14]。11月5日発売の「週刊文春」11月12日号に告白手記を寄稿し、脱会した旨を明かした[15]。晃一は翌1993年、『われら父親は闘う 娘・景子を誘いこんだ統一協会の正体』(ネスコ)を出版した。

その後、短編小説集を発表。執筆やテレビの情報番組ワイドショー番組でのコメンテーターとしての活動を行い、2020年頃は通販番組のサブMCなども務めた。

Remove ads

人物

Remove ads

著書

出演

要約
視点

情報ワイドショー番組

さらに見る 期間, 番組名 ...

バラエティ番組・その他

テレビドラマ

ラジオ

映画

Remove ads

脚注

参考文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads