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飯田盛敏

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飯田 盛敏(いいだ もりとし、1870年7月30日明治3年7月3日[1][2][注 1]〉 - 没年不明[2])は、明治から大正時代の政治家官吏三重県四日市市長。旧名は熊蔵[3]

経歴

東京市[1]深川区東大工町にて士族の飯田盛孝の三男として生まれる[3]。1904年(明治37年)5月、旧名を改める[3]法学を志し、東京仏学校暁星学校和仏法律学校仏語法律経済学を修め、法学博士梅謙次郎の知遇を得、1900年(明治33年)司法省仏文翻訳係となり、大臣官房兼参事官室勤務を拝命した[3]。その後、文官高等試験に合格し、地方官試補として群馬県に赴任し、青森県第二部長、岡山県事務官、長崎県港務部長などを歴任した[3]

前市長の福井銑吉の病気による辞任に伴い[1]、1914年(大正3年)8月には四日市市長に就任[3]第一次世界大戦による好況を背景に耕地整理による農地の近代化、東洋紡績の設立、昌栄橋の竣工、鵜森神社前道路、三重軌道の開通、タオル工場や四日市青物海産物市場などの設立、尋常高等小学校の設置、市立図書館の建設、消防体制の確立に尽力した[3]。1916年(大正5年)10月にはペストの発生があり、終息に奔走した[3]。1918年(大正7年)8月まで1期4年務めた[3]

のち京都府産業部長などを経て[4]台湾総督府に転じ、州事務官や府参事官[5]高雄州内務部長[6]を歴任し、1924年(大正13年)退官した[7]

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脚注

参考文献

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