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駒井徳造

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駒井 徳造(こまい とくぞう、1932年3月31日 - )は元任天堂部長、元セガ・エンタープライゼス副社長、元トムス・エンタテインメント会長大阪市出身。

人物

要約
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1954年に任天堂に入社し、長く営業を担当した。

任天堂レジャーシステムは1975年に『EVRレース』を発売し、メダルゲームに参入。関東における『EVRレース』の販売は、主にエスコ貿易が担当し、それにより駒井はエスコ貿易社長の中山隼雄と知り合う。任天堂のアーケード事業が苦しい時期も、中山はハードの販売を一手に引き受け、ほとんどエスコ貿易の独占に近い状態になることもあった。駒井はそれらの取引を通じて中山と信頼関係を築いた[1]

苦しい状態が続いた任天堂のアーケード事業は、『スペースフィーバー』(1979年)の大当たりによって一気に息を吹き返した。しかしインベーダーブームの終了とともに『スペースフィーバー』の売れ行きが落ち込み、駒井はその焦げ付き解消のために子会社に出向を命じられた。気分が重くなった駒井は独立を考え始めていたが、そこに、当時セガ・エンタープライゼス副社長をしていた中山が声をかけた[2]

任天堂は1980年に携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売し過去の借金を帳消しにするほどの売り上げを記録。その利益を元手に、アーケードゲームを家庭で再現できる新しい家庭用テレビゲーム機・ファミリーコンピュータの開発に着手。家庭用テレビゲーム機のハード及びソフト開発にアーケードゲームの開発者を担当させたために、任天堂のアーケードゲーム事業は急速に縮小していく。アーケードゲーム機器の販売会社である任天堂レジャーシステムの取締役営業部長を務めていた駒井は1981年新春にアーケードゲーム業界の展望を業界紙に寄稿していた[3]が、社長の山内溥(当時)の「アーケードはもうやめや」の声でアーケードゲーム事業の撤退が決まり、それに駒井は反発した[要出典]

1982年8月31日に任天堂レジャーシステムを退社、翌9月1日にセガ・エンタープライゼスに入社し顧問に迎えられた[4]。同年9月6日の記者発表会にて、記者から「任天堂からのスカウトなのか」と問われたセガ・エンタープライゼス副社長の中山隼雄と駒井はスカウトを否定しつつ、中山はアーケードゲーム業界にスムーズに参入した任天堂に倣って、家庭用分野にスムーズに参入するために駒井の手腕に期待していると述べた[4]

1982年9月29日には常務取締役に就任、コンシューマー・マーケット部門の担当となり、コレコが開発したコレコビジョンに関する業務をするのではないかと報道された[5]

1983年にはセガ初のコンシューマーゲームであるSC-3000[6]に携わったことでセガのコンシューマー事業が始まった[7]。そしてSC-3000からゲーム機に特化したものとしてSG-1000が作られた[8]が、発売の際は駒井によって任天堂が開発していたファミリーコンピュータの販売価格がセガ側に伝えられ、その価格を基にSG-1000の価格が決められたとされている[9]

1984年4月には専務に就任し、コンシューマー事業本部長を兼務、1991年6月27日には経営強化の一環として、新設された副社長に就任、コンシューマー機器部門を担当した[10]

その後セガから転じて、1992年にセガの傘下に入った東京ムービー新社の会長に就任[11]、東京ムービー新社がキョクイチに吸収合併された後はキョクイチの社長および会長に就任した。

2004年のトムス・エンタテインメント取締役会長当時、読売新聞中部支社でのインタビューにて駒井は、中部地方はハード面は強いがソフト分野に弱く[12]、「経済界の方と話していても、異業種というか、違う分野だと感じる」と語っている[13]

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経歴

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担当作品

テレビ

映画

OVA

脚注

参考文献

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