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高岡宗泰
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高岡 宗泰(たかおか むねやす)は、鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府御家人。隠岐国守護代。出雲高岡氏の祖。隠岐(佐々木)泰清の八男。

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来歴
要約
視点
建長7年(1255年)、佐々木泰清の八男として生まれる[1]。母は葛西清親の娘。
弘長4年/文永元年(1264年)、出仕[2]。文永6年(1269年)に元服し、宗泰と名乗る[2]。「宗」の字は当時の執権・北条時宗からの一字拝領とみられる。
文永11年12月頃(1275年1月頃)、異国警固番役として、筑前国遠賀郡黒崎付近で防衛の任につく[3]。
隠岐国守護代
建治2年9月5日(1276年10月13日)、隠岐国守護・佐々木泰清は、隠岐国知夫郡美多荘の大山社(焼火山を御神体として奉る大山神社)の禰宜であった僧・慈蓮に下文を発し、所領を安堵して郎党に組み込んだ[4]。これは、慈蓮が百姓らに違背したとして没収されていた先祖伝来の所職(大山社禰宜)と神田(美多荘)を、「和与した」として慈蓮に還補したものである[4]。
さらに翌、建治3年4月(1277年5月頃)、泰清は八男・宗泰を隠岐国守護代として派遣し、僧・慈蓮は「八郎殿御殿人(御家人)」であるとして、隠岐国美多荘の荘官の進止下にはないことを証する袖判を附した下文を発給した[4]。
大山社は焼火山を祀る隠岐島民の信仰の拠点で、これを隠岐国守護の管轄下に置くことで、隠岐支配を円滑に進める目的があったとされる[4]。
弘安元年(1278年)頃、父・泰清より出雲国神門郡塩冶郷高岡邑を分与されて、始めて高岡氏を称した[9]。
永仁5年6月3日(1297年6月23日)、所領高岡邑の壱町を出雲鰐淵寺に寄進[10]。
正中3年2月23日(1326年3月27日)、出雲鰐淵寺の三重塔と堂宇が失火により悉く炎上した。この三重塔は、宗泰の亡父・佐々木泰清の菩提を弔う目的で建立されたものであったため、宗泰は鰐淵寺衆徒の悲歎の意を容れ、再建を発願した。
去二月廿三日子剋比、類火北院三重
塔婆以下堂舍悉以炎上由事、驚歎之
至盡御悲歎誠察入候了。
於彼塔婆御造立之間、可申承由事、
衆徒御状委細承了。
雖小分儀可被得内々其聞事申候御使了。
願口上可然様承申候者更不可有等閑之
儀候。恐々謹言[12]。
(正中3年)六月五日 沙弥覺念(花押)
謹上 鰐淵寺衆徒御返事 — 『沙弥覺念書状』
(所収『鰐淵寺文書の研究』第45号)
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補註
参考文献
外部リンク
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