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高木助一
日本海軍少将 ウィキペディアから
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高木 助一 (たかぎ すけかず、1863年7月6日(文久3年5月21日) - 1920年(大正9年)2月8日)は、帝国海軍に所属した明治時代の日本の海軍少将である。
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来歴
薩摩藩士の高木秀明の子として生まれ、高木市助の養子となる。高木家の初代は九郎左衛門といった。1882年に海軍兵学校(9期)を卒業し「清輝」に乗船。日清戦争には「扶桑」分隊長として従軍。1902年に「比叡」、1903年に「千歳」の艦長に就任し、日露戦争においてはコルサコフ海戦で二等巡洋艦「ノヴィーク」を航行不能とした。また日本海海戦では駆逐艦「ベズプリョーチヌイ」を「有明」とともに追撃、撃沈した。戦後は『運用術参考書』を編纂、「見島」、「鎮遠」艦長を経て舞鶴予備艦隊司令官となり、1912年予備役。
栄典
- 位階
- 1885年(明治18年)10月26日 - 正八位[1]
- 1890年(明治23年)10月15日 - 従七位[2]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 正七位[3]
- 1897年(明治30年)3月1日 - 従六位[4]
- 1898年(明治31年)3月21日 - 正六位[5]
- 1903年(明治36年)3月30日 - 従五位[6]
- 1908年(明治41年)5月11日 - 正五位[7]
- 1912年(大正元年)12月28日 - 従四位[8]
- 勲章
編著
- 『運用術参考書』(軍港堂、1907年)
脚注
外部リンク
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