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高橋信次 (宗教家)
日本の宗教家、実業家、技術者 ウィキペディアから
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高橋 信次(たかはし しんじ、1927年〈昭和2年〉9月21日 - 1976年〈昭和51年〉6月25日)は、日本の新宗教のGLAの開祖[1]。
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略歴
要約
視点
(教祖の高橋信次のライフヒストリーは、本人の著作以外の情報がほぼない[3]。)
1927年、長野県南佐久郡平賀村(現在の佐久市)の農家に男3人・女7人の10人兄弟の次男として生まれた[4]。
1938年、10歳で原因不明の病気にかかって幾度か死線を超え、幽体離脱を経験し、このような発作を繰り返すようになった[3]。何回か呼吸が止まる状態が続いていったとき、やがて「もう一人の私」となっている自分に気がついたという。自分の肉体を抜け出している間は、肉体の自分を見たり、この世では想像もできない美しい世界で遊んだり、死者と話したり、世界中の人々が暮らす大きな建物を見学するときがあったと書き記している。そして、この病気をきっかけとして、「もう一人の私」というのは誰であろうかという疑問を抱くようになっていったという[5]。これ以来、幽体離脱で経験した「もう一人の私」の疑問を解くことと健康を願い、家の近くの権現に参るようになる[6]。中学校を2年で中退して陸軍幼年学校に入り、陸軍士官学校在学中に終戦を迎える。日大工学部電気学科に進学、電気工学、物理、天文、科学、医学などを学び、これが後のGLAの教義の形成に大きな影響を与えた[7]。卒論のテーマが霊的現象を解明しようというもので、教授の不評を買ったため卒業資格を得ることができなかったという[7]。
1940年、小学校から中学校に進む。1941年、中学を中退し、陸軍幼年学校に進学[8]。1944年、陸軍士官学校に進学し、そして終戦[注 1][9] 。1946年に復員。復員のときにもらった2千300円を持ち、敗戦のショックの中、廃墟となった東京に上京する[10]。もう一度勉学を志し、苦学にて大学入学資格検定試験を通過し、進学した日本大学旧工学部(現 日本大学理工学部)では、自らの疑問追及に必要だった自然科学や理科系の学びをする[11]。
1952年、25歳から独立自営で電気関係の仕事を始め、徐々に拡大、コンピューター端末機器製造会社の高電工業株式会社を設立し、同社と八起ビル管理株式会社の社長となる[7]。神秘の世界の探求も続け、仏教の僧やキリスト教会にいろいろ質問したりもしたが、納得できず、既存宗教に徐々に失望[12]。学友に「変わり者の予言者」等と呼ばれており、異常者扱いされていたという[13]。
1954年に結婚、この前後から不思議な体験をするようになり、ほとんどの予言が的中し、様々な相談を受けるようになったという[13]。
1962年、35歳のとき個人経営で高橋電工を設立[14][15] 。経済力がなくては人を救うこともできないと考えるようになり、利益追求型の経営をするようになった[16]。
1964年、高電工業株式会社を設立[14][15]。電子機器の設計製造に着手し、 事業は順調に伸びてゆき、神奈川と長野に生産工場を設置した。しかし、会社内をはじめ、家庭内も混乱するようになっていった[16]。
1968年2月にはローソクの炎が蓮の花の形に、そして蓮の実の形になる体験をし、40歳くらいのとき浅草でサウナ風呂や超音波温泉をするためのビル[17]建設が始まる。併行して電機会社の経営と、研究所(人道科学研究所)での研究をしていた[16]。7月に義弟に手かざしをしていると、「ワン・ツー・スリー」と名乗る指導霊、「フワン・シン・フワイ・シンフォー」と名乗る守護霊が義弟に憑依し3日のうちに悟れと要求、信次は高野山の修行僧や寛永寺の古宇田老師などと接して一種の悟りに至ったとされる[13]。7月末まで義弟を霊媒に異次元の存在と交流したが、これ以降は信次が直接指導霊や守護霊から教えを受けるようになったという[13]。9月に妹に観世音菩薩が入り、過去生を思い出し、「もう一人の私」とは肉体から抜け出した自分自身で、あの世に行くときの新しい肉体を持った自分であると考えるようになり、幽体離脱して自在に世界中望む場所に行くことができるようになったという。
1969年、精神復活運動のために、浅草に建設中のビルの3Fフロアを開放して提供する[18]。ビルにて第一回の集会が開かれ、名前を「神理の会」とする。集われた人の中より、「ぜひもっと多くの人にこの教えを聞いていただきたい」という発心が生まれ、1969年4月、有志により「大宇宙神光会」が創設される(GLA創立)[19][20]。
1971年『縁生の舟』(現証篇)(科学篇)を出版する。宗教的な集団造りは望んでいないことを明示した[21]。同年、栃木県の出流山にて研修会が開かれる。『縁生の舟』を読んで正師帰依を模索していた大阪のZ会教団が、神の光の教えを受けることとなる[22]。
1976年、自らの48歳での帰天と青年の中から後継者が出現することを予言し、後継者を探し始める。同年、和歌山県白浜研修会を開催し、当時大学生であった長女の高橋佳子を法の継承者として指名する[23]。同年6月25日、死去[24]。48歳没。
信次には多くの新宗教の教祖同様に、シャーマンの要素が見られた[25]。霊能者としては脱魂と憑霊(霊の憑依)の両方を具えており、召命型・修行型の分類では召命型の要素が強いと見られている。信治は講演の後で「霊道を開く」と言って、異言を語らせる、過去生を思い出させる、憑依霊を祓うといったことを行い、カリスマ性を示した[25]。
研究者の長谷瑞光は、GLAの教義の源流には悪霊論があるとしており、信次は精神病は悪霊の仕業であると説いていたが、佳子の著作ではこうした言説はほぼ姿を消し、人生の苦難や世界の苦境の克服ということがテーマとなっており、教えには変化が見られる[26]。
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主な著作
単著
- 『心の原点 失われた仏智の再発見』三宝出版、1973年9月1日、ISBN 4879280062(1980年10月30日、新装改訂版)
- 『心眼を開く あなたの明日への指針』三宝出版、1974年7月8日、ISBN 4879280097(1980年11月10日、新装改訂版)
- 『心の指針 苦楽の原点は心にある』三宝出版、1974年1月5日、ISBN 4879280070(1980年11月10日、新装改訂版)
- 『心の対話 人のことば天のことば』三宝出版、1976年6月21日、ISBN 4879280135(1981年2月15日、新装改訂版)
- 『人間・釈迦』
- 1.偉大なる悟り 三宝出版、1973年4月1日、ISBN 4879280046(1980年10月31日、新装改訂版)
- 2.集い来る縁生の弟子たち 三宝出版、1974年5月5日、ISBN 4879280089(1980年11月20日、新装改訂版)
- 3.ブッタ・サンガーの生活 三宝出版、1976年11月24日、ISBN 4879280127(1980年12月15日、新装改訂版)
- 4.カピラの人々の目覚め 三宝出版、1976年11月24日、ISBN 4879280143(1980年12月15日、新装改訂版)
- 『悪霊』
- I あなたの心も狙われている 三宝出版、1975年3月10日、ISBN 4879280100(1980年10月25日、新装改訂版)
- II 心が作る恐怖の世界 三宝出版、1975年7月15日、ISBN 4879280119(1980年10月25日、新装改訂版)
- 『愛は憎しみを越えて』(『餓鬼道』改題) 三宝出版、1974年、ISBN 4879280151(1979年12月21日改訂第一版、1981年2月15日新装版)
- 『原説般若心経 内在された叡智の究明』三宝出版、1971年12月15日、ISBN 4879280038(1981年1月15日、新装改訂版)
- 『心の発見』(『縁生の舟』改題)
- (現証篇) 三宝出版、1973年4月20日、ISBN 4879280054(1981年1月31日、新装改訂版)
- (科学篇) 三宝出版、1971年5月10日、ISBN 487928002X(1981年1月31日、新装改訂版)
- (神理篇) 三宝出版、1971年1月15日、ISBN 4879280011(1982年1月10日、新装改訂版)
共著
- 高橋信次(著)、蓬田やすひろ(イラスト)『釈迦物語 天と地のかけ橋』三宝出版、1980年9月、ISBN 487928016X
作詞
- 混声二部合唱曲『心の讃歌』
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注釈
- 訓練時に戦火が拡大し、そのまま実戦配備も経験したとのことである。『心の発見 現証篇』P23
脚注
関連文献
関連項目
外部リンク
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