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高瀬渓谷の噴湯丘と球状石灰石

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高瀬渓谷の噴湯丘と球状石灰石(たかせけいこくのふんとうきゅうときゅうじょうせっかいせき)は、長野県大町市西部の北アルプス山間部を流れる高瀬川上流の湯俣温泉にある、国の天然記念物に指定された温泉沈殿物英語: Hot-spring Deposits[注釈 1])である[1][2]。当地での温泉沈殿物は、炭酸カルシウム(CaCO3)を多く含んだ温泉水から形成される噴温丘(ふんとうきゅう、英語: Sinter Cones)と、その頂部より熱湯を吹き出す噴湯孔(ふんとうこう)と呼ばれる穴の中に沈殿する小さな球状石灰石(ここでは霰石あられいしアラゴナイト)が主体である[3]

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高瀬渓谷(湯俣温泉)の噴湯丘。2019年8月26日撮影。

指定地は高瀬川の切り立ったV字谷河床にあるため[4]、河川が運ぶ砂礫堆積により温泉湧出口の閉塞や、温泉湯脈の経路変化が頻繁に生じ、その都度新たな源泉湧出口の出現と、新たな噴湯丘の形成が繰り返されている[5][6]。明治期の調査開始以降、温泉湧出口の位置や噴湯丘を含む温泉沈殿物の形状は常に変化を続け、数十年に一度レベルの頻度で発生する記録的大雨洪水による破損や流失により噴湯丘の個数は増減を繰り返している。

成長過程の噴湯丘が見られることや、温泉水の中に沈殿する球状石灰石の産出など、特有の温泉現象が見られることから[3][7]1922年大正11年)10月12日に国の天然記念物に指定された[1][2]。指定当時の名称は「平村噴湯丘及球状石灰石[8]」であったが、1957年昭和32年)7月31日に今日の指定名称に変更された[1][2]

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解説

要約
視点
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高瀬渓谷の噴湯丘と球状石灰石
高瀬渓谷の
噴湯丘と
球状石灰石
高瀬渓谷の噴湯丘と球状石灰石の位置。

神保小虎の現地調査

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神保小虎

本記事で解説する高瀬川上流部の温泉現象に関する学術調査は明治期から行われており、記録の残る最古のものは1898年明治31年)10月20日発行の学術誌『地質学雑誌』第5巻第61号の中で、神保小虎レポートした「信濃國高瀬川上流の熱泉と霰石」である[9]。神保は明治時代から大正時代にかけて活動した地質鉱物学者で、雑誌発行のわずか2か月前の同年8月29日に現地調査を行っている[10]

報告内容によると神保は大町を出発し、今日の長野県道326号槍ヶ岳線に沿って北アルプス方面へ進み、山間部へ入る手前の最後の集落にあたる大出(おおいで)地区狩猟生業とする山域に詳しい案内人と人夫を雇い湯俣温泉へ向かっている[注釈 2]。大町から3(約12 km)ほどの葛ノ湯を経由して、高瀬川渓谷の河畔で野営を挟み、2日間をかけ合計36 kmの道程を歩いて噴湯丘のある湯俣温泉に到着した[11]。なお、帰路は同じ経路を戻らず、湯俣温泉北西側の急斜面を登攀して飛騨山脈主稜の県境尾根(今日の裏銀座の一部区間)を縦走し、富山県側にある水晶岳に産出する柘榴石(ざくろいし・: garnet)の採集調査を行っている。その足で東沢谷から黒部川を下り、今日の平の渡し付近から針ノ木古道を経由し再び信州方面へ登り返し、針ノ木峠を乗り越えて大町へ戻っている[12]

高瀬川は湯俣温泉のすぐ上流側で2つに流れが分かれており、右手側が双六岳方面より流れ下る湯俣川で、左手側が槍ヶ岳方面より流れ下る水俣川である。このうち噴湯丘があるのは湯俣川で沿いの一角で、標高は約1,530 m、周囲の地質は薄い紅色を帯びた黒雲母花崗岩であるが、温泉湧出により岩中の鉄分酸化していることに加え、温泉現象に伴う様々なガスにより黒色に変色しており、一見すると花崗岩とは思えない岩肌である[13]硫化水素の凄まじい異臭が漂い、地元の人々からは「地獄」と呼ばれ[3][14][15]国土地理院が発行する1/25000地形図(槍ヶ岳・図幅)には「地獄」の地名が今日も確認できる(北緯36度23分51.0秒 東経137度40分26.4秒)。

神保が調査した1898年当時の噴湯丘は、湯俣川の北岸(左岸)の約3町(約330 m)の範囲に集中しており、活動中のものを噴湯坑と表現し7カ所確認し、活動を停止したものを旧噴湯丘、あるいは「湯アカの丘」と呼んで8カ所確認している[16]。このうち活動中のものは噴湯坑から熱湯を常時吹き出しており、吹き出し口の中で沸騰する熱湯が煮えたぎり擾乱する霰石(石灰石)を多数確認しているが、ほとんどが砂粒のような微粒で、大きいものでも直径2(約6 )しかなく、ここまで来る途中に立ち寄った葛ノ湯の西澤氏が所有するほどの大きさのものや、表面が五角面状のもの、表面に凹みがあるものなどは見つけられず、成因についても「余は未だ之を調査するに充分なる多くの材料を有せず。」と述べている[17]

温泉沈殿物が堆積した噴湯丘の最大のものは徑()拾(約18 m)、高さは拾餘(3 m強)、いずれの噴湯丘も複数の噴湯坑があり、吹き出す熱湯の高さは2-3(約6-9 cm)から1尺(約30 cm)ほどであるが[16]、同行した大出地区の案内人によれば、2年前の1896年(明治29年)は吹き出す熱湯は2尺(約60 cm)ほどの高さに達していたという[18]。このことから当時も温泉活動の規模や温泉沈殿物の形状は常に一定でなく変化があったと考えられている。

神保はこれらの温泉現象のスケッチを複数作成し『地質学雑誌』へ掲載している[9]

神保小虎による「高瀬川上流の熱泉と霰石」1898年(明治31年)のスケッチ
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第一図[18]
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第二図[19]
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第三図[19]
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第四図[20]
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第五図[12]

天然記念物の指定

高瀬川上流の湯俣温泉にある特徴的な温泉現象は、1920年大正9年)6月1日に制定された史蹟名勝天然紀念物保存法の指定対象として調査が行われることとなり、制定直後の同年7月より地質学者の佐藤伝蔵による現地調査が実施された[21]。この時点で神保の現地調査から20年以上が経過していたが、現地の環境や交通事情はほとんど変わっておらず、佐藤も長い距離を徒歩で調査に赴いている[22]。なお、神保の調査から佐藤の調査までの期間中の1915年(大正4年)7月には、硫化鉱物の研究で知られる鉱床学の専門家の渡邊萬次郎による調査が行われ[23]、その内容は1917年(大正6年)発行の『地学雑誌』に報告されている[24]

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渡邊萬次郎による噴湯丘から噴出する水柱のスケッチ。1915年(大正4年)。
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佐藤伝蔵による噴孔内の球状石灰石のスケッチ。

佐藤が調査した1920年(大正9年)7月の時点で、湯俣川河床に湧出する温泉は6カ所、河床の左岸斜面の湧出を停止した噴湯丘を含む5カ所、合計11カ所の温泉沈殿物を調査し、下流側から1号から上流部の11号までナンバリングを行い、湧出温度泉質など個別に詳細な調査観察を行っている[25]。これらのうち2号、3号、4号、9号は形成中の噴湯丘と高温の温泉湧出の孔口が複数あり、1号は低温水の湧出はあるものの温泉沈殿物に留まり噴湯丘の形成には至っていない[26]

5号、6号、7号、8号、10号、11号はいずれも温泉活動は終息していたが噴湯丘は残存している[4]。このうち5号と7号は2つの噴湯丘が互いに癒着しており、特に7号は基部の大きさが南北方向に66尺(約20 m)、東西方向に115尺(約35 m弱)、高さは30尺(約9 m)と当地における最大規模の噴湯丘であった[24]。なお、活動中のひとつ9号は他と趣をやや異にし、頂部に複数ある噴出孔が銚子口と称する尖った奇妙な形状をしており、側面に複数ある噴孔口から熱湯の水柱を最大8尺(約2.4 m)の高さに噴き上げていた[27]

3号の頂部下方に活動を停止している噴孔があって、この孔の内部壁面に瘤状の沈殿物が集合しており、直径約3寸(約9 cm)の孔の内部に霰状方解石 [注釈 3]百数十粒がザクロの実のような状態で見られ、佐藤はこれをスケッチ(右記図参照)している。これが天然記念物の指定名称にも含まれる「球状石灰石」である[28]

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佐藤伝蔵による現地調査の一コマ。1920年(大正9年)7月。

こうして佐藤による現地調査により報告書が作成され、1922年大正11年)10月12日に国の天然記念物に指定された。指定当時の名称は「平村噴湯丘及球状石灰石[8]」で、指定地の地番(当時)は、長野県北安曇郡平村高瀬川国有林第四八班ろ小班、貳拾六町貳段四歩(約26.04 ha)のうち、指定範囲面積は七町六段八畝貳拾七歩(約7.62 ha)である[8]

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佐藤伝蔵による現地調査で撮影された噴湯丘のひとつ。噴湯丘頂部に立つ人間と比較すると大きさが良くわかる。左の実測図中の7番にあたる。1920年(大正9年)7月。

ただし20年以上前の神保や5年前の渡辺の調査記録と比較すると、噴湯丘の位置や形状、個数、温泉湧出位置などは異なっており、急峻な地形ゆえの斜面崩壊や、集中豪雨の増水による破損や流失など、地形的擾乱が常時働いている。実際に佐藤の調査でナンバリングされた噴湯丘や温泉沈殿物の11か所の大半が、今日では不明瞭な状態である。現地調査を行った佐藤も、心無い登山者や訪問者らによる温泉沈殿物破損の恐れや、噴湯丘周辺で当時行われていた硫黄採掘作業に伴う様々な工程が、噴湯丘の保全に悪影響を及ぼすことを危惧し、当地の学術上貴重な範囲を天然記念物として指定し、永続的な保全を継続するよう訴えている[29][30]

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佐藤伝蔵による「湯俣川噴泉塔及ビ温泉ノ分布(大正9年8月測定)」の実測図。

高瀬ダム湖の湛水と河床の上昇

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高瀬渓谷の噴湯丘。2019年8月26日撮影。

平村噴湯丘及球状石灰石は1957年昭和32年)7月31日に今日の指定名称である高瀬渓谷の噴湯丘と球状石灰石に指定名称が変更された[1][2]。時期を前後して湯俣温泉から湯俣川沿いを遡って、三俣蓮華岳鷲羽岳の鞍部にある三俣山荘に至る登山道「伊藤新道」が、山小屋経営者の伊藤正一により開設されると、登山者らに噴湯丘は広く知られるようになっていった[31][注釈 4]

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高瀬渓谷の噴湯丘と球状石灰石のある湯俣温泉周辺の空中写真。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成(2006年10月09日撮影の画像を使用作成)

長野県の小学校教諭であった宮沢文人は1960年代から、高瀬渓谷の噴湯丘と球状石灰石の現地調査を年単位で継続して行い、その調査内容を1971年(昭和46年)発刊の『北安曇誌.第一巻(自然)』で詳細に記述している[32]。宮沢は発刊当時の1971年には大町市立大町小学校(現、大町市立大町西小学校[33])の教諭であり、のちに信州大学教育学部内に設置された信州理科教育研究会の編集委員を務めた人物である[34]

1971年(昭和46年)の時点で活動中の噴湯丘は大小合わせて6カ所あり、このうち最大のものは高さ5 mで、活動を休止した噴湯丘のうち3カ所は高さ15から16 mに達していた[3]。宮沢はこれら新旧の噴湯丘の9カ所について詳細な調査を行い、活動中の噴湯丘の泉温は84.2 以上、水素イオン指数はpH 6.3からpH 6.9の範囲の微弱酸性であった。溶存イオンの最低値は、Sl-261.56 mg/LSO42-27.444 mg/L、総硬度276.616 mg/Lと、いずれの数値も温泉水としては多量で、中でも硫化水素の濃度は3.4ppmから4.6ppmと高い数値である[35]

8年後の1979年(昭和54年)に宮沢が調査を行った際には、活動中の噴湯丘は3カ所に減少していたが、そのうち最大のものは温泉湧出が盛んで、高さは1.2 m、底面の直径2 m、頂部の噴湯孔から毎分約90リットル(L/min)、85 の熱水が吹き出し、噴湯丘の岩面を放射状に流れ落ち、温泉水中に溶存している炭酸カルシウムや硫黄などの温泉沈殿物が沈積する様子が確認されている[14]

噴湯孔の中に産出される「球状石灰石」(霰石あられいし、アラゴナイト)の主成分は噴湯丘と同じ炭酸カルシウム(CaCO3)であるが、微量のマンガンを含むため薄い桃色をしている[36]。この球状石灰石の成因について確定的なものはないが、球体の中心にがあることから次のように推定されている。

まず最初に噴湯孔内部に炭酸カルシウムの小さな核ができ、その周囲を徐々に炭酸カルシウムが付着していき、噴湯孔の中で激しく湧出する熱水により回転され続けるため、長い年月をかけて球体になると考えられている。噴湯孔から熱水が流れ落ちる噴湯丘の側面では、球形ではなく円形に付着した炭酸カルシウムの塊のようなものが見られる。このように同じ炭酸カルシウムを含む熱水であっても、流動し続ける側面では球体は形成されない。球体は孔の中で長期間回転運動を受け続けることで形成されると考えられている[37]

一方で左岸中腹にある活動を停止した複数の噴湯丘は、表面の風化や上部斜面の崩落などにより埋没されつつあるなど、短期間の間に景観が変化しているものと考えられる[37]。継続的に調査活動を行った宮沢によれば、1963年(昭和38年)に発生した洪水で噴湯丘の一部が抉られ[38]1968年(昭和43年)7月の集中豪雨による消失が確認されている[14]

前述の山小屋経営者伊藤正一は、北アルプス最深部で昭和20年代まで狩猟を生業としていた猟師との交流を記したノンフィクション『黒部の山賊』の著者でもあり、黒部源流エリアと呼ばれる一帯の三俣山荘水晶小屋雲ノ平山荘を開設するなど、北アルプス登山の黎明期を良く知る人物であるが、伊藤によれば1979年(昭和54年)に竣工した高瀬ダムとダム湖の湛水により地下水位が上昇したことで、上流部にある噴湯丘周辺の土砂の堆積量が増えて湯脈も変わったという。地下水位上昇の影響は河床だけでなく、山体の地盤も緩くなったことを実感し、過去と比較すると土砂崩れや斜面の崩落が増えたと憤っていたという[39]生態学者品田穣も、指定地のすぐ下流に設置された取水堰の影響による河床の上昇が、天然記念物指定地にまで及び、土砂の堆積が噴湯を妨げていると指摘している[1][6]

国の天然記念物に指定された湯俣温泉の温泉沈殿物による活動形成中の噴湯丘は、数こそ減少したものの観察することができるが[5][7]、指定名称にも含まれる「球状石灰石」は現地には残っておらず、過去に採集された一部が大町山岳博物館に所蔵されている[40]

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交通アクセス

所在地
  • 長野県大町市大字平(たいら)湯俣。
交通

脚注

参考文献・資料

関連項目

外部リンク

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