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鴟尾
瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種 ウィキペディアから
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鴟尾(しび)とは、瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種である。訓読みではとびのおと読む。沓(くつ)に似ていることから沓形(くつがた)とも呼ばれ、。鴟吻(しふん)とも。古代中国から日本など周辺諸国に広まった。材質は瓦製が大半だが、木製・金属製・石製の例も存在する。



概要
要約
視点
寺院・仏殿、大極殿などによく用いられる。火除けのまじないにしたといわれている。
中国・漢代の画像石や陶屋には大棟両端を高く反り返らせる姿が描写されており、このころに鴟尾の原型が生まれていたとみられる[1]。「鴟尾」の語の初見は『晋書』で、鴟尾の成立は4世紀とみられる[2]。北魏時代の石窟寺院の岩絵に図像が多く残り、また実物も河北省何庄村の鄴城遺跡から発掘されていることから、西暦500年頃にはかなり普及していたと考えられている[3]。
中国の鴟尾は朝鮮半島に伝わり、高句麗・新羅・百済では寺院跡から出土している[4]。
瓦の伝来に伴い、6世紀末に大陸から日本へ伝えられたと考えられている[5]。日本最古の鴟尾の例は、592年創建の飛鳥寺中金堂跡から出土したものである[6][7]。
伝世品としては唐招提寺金堂の旧鴟尾(金堂の附指定として国宝[8])が唯一のものとなる。西側に上げられていたのが創建時のもので、東側に上げられていたのは鎌倉時代(元亨3年(1323年))の模作である[9]。出土品は150例以上が飛鳥時代から平安時代の寺院跡や難波宮・長岡宮・藤原宮・平安宮・大宰府などの宮殿・官衙跡、さらに瓦窯跡から見つかっている[10]。
出土品のほとんどは瓦製だが、石製の鴟尾の実物も少数存在し、群馬県前橋市の山王廃寺跡から2例、鳥取県伯耆町の大寺廃寺跡から1例の計3例のみが知られている[10]。文献上は639年建立の百済大寺金堂に石製鴟尾が上げられていたことが確認できる[10]。平安宮大極殿には延久3年(1071年)以降木製、保元3年(1158年)以降金銅製の鴟尾が上げられていたことが史料に見え、『小右記』には、万寿2年(1025年)に藤原道長が法成寺の甍を緑釉で飾るための鉛を得るために豊楽殿の鴟尾を鉛製から木製に取り替えたとの記述があるが、これらは現存しない[11]。
平安時代の鴟尾の作例は、大宰府を除けば広隆寺、平安宮および平安京に瓦を供給した窯跡など京都に限定される[12]。平安時代には鳳凰の浮き彫りを施すものや、緑釉を施した例も現れる[12]。康平6年(1063年)の豊楽院焼失、安元3年(1177年)の朝堂院焼失を経て安貞元年(1227年)に内裏は廃絶された[13]。
中国の唐代に鴟尾の大棟に取り付く部分を魚もしくは獣や龍の頭の形に作る例が発生して螭吻(ちふん。または蚩吻/鴟吻(しふん))へと発達し、さらにそれが日本へと伝来したものが、城の天守閣などに見られる鯱(しゃちほこ)である[1]。
火除けのまじないであることについて、『蘇氏演義』(9世紀末)、『唐会要』(961年)に、「漢の武帝(前156-87年)が火を払うとして蚩尾(鴟尾)という海の獣の像を屋根に飾った」と載る(詳細は螭吻も参照のこと)。ただし考古学的証拠としては、魚型の螭吻は後代に生じたものである。また初期の鴟尾飾りは鳥の羽のような形をしていることから鴟尾の原型は鳥の飾りであるとも言われる[14]。
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主な出土遺跡
茨城県
群馬県
岐阜県
- 山田寺跡
滋賀県
- 南滋賀町廃寺跡
奈良県
大阪府
京都府
和歌山県
- 上野廃寺跡
兵庫県
岡山県
広島県
鳥取県
愛媛県
福岡県
- 大宰府跡
ギャラリー
脚注
参考文献
関連項目
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