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小寺休夢

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小寺 休夢(こでら きゅうむ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。諱は高友、休夢は号[4]茶人として著名である。

概要 凡例小寺 休夢, 時代 ...

生涯

黒田重隆の子として誕生[4]。兄に黒田職隆、弟に井手友氏、松井重孝しげよしがいる[4]

一時、恒屋安芸守と称して播磨砥堀山城に入ったといわれており[5]永禄年間頃までに出家剃髪して増位山地蔵院に住み、休夢斎善慶と号した。のち雲照院に移った。元亀4年(1573年)、別所氏によって増位山が攻められると、兄・職隆らの支援を受け、また、櫛橋氏志方城主)や長井氏野口城主)らの仲介を得て和睦した。

その後も職隆の子で甥の孝高(官兵衛)に従い、三木合戦などで活躍した。のち、豊臣秀吉に仕えた[4]

文禄3年(1594年)3月、死去[6]

逸話

  • 文化人、特に茶人として著名で、天正15年(1587年)、九州遠征中の豊臣秀吉より、浜(現在の九州大学馬出キャンパス内)での茶会に招かれた。このとき秀吉の命を受けた千利休は、に鎖をおろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上の松葉をかきあつめて湯をわかしたとされる(→千利休の項を参照のこと)。
  • 平成26年(2014年)8月、姫路市随願寺で「善慶」と刻まれた供養塔が同寺の地蔵院跡地から見つかった[7]

関連作品

脚注

参考文献

関連項目

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