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1969年日本グランプリ (4輪)

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1969年日本グランプリは、1969年10月10日富士スピードウェイにて決勝レースが行われた。大会名称は'69日本グランプリ

1969年の日本グランプリ
前年: 1968 翌年: 1971

1970年の日本グランプリが取り止めとなったため、大排気量二座席レーシングカーによって競われた最後の日本グランプリとなった。

概要

要約
視点

変更点

例年、日本GPは5月3日の祝日(憲法記念日)に行われてきたが、1969年5月にフォーミュラカーレースのJAFグランプリが初開催された。これに伴い、従来の日本グランプリは10月開催に変更された。

決勝周回数は80周 (480km) から120周 (720km) に延長され、国際的な耐久レースの格式に一歩近づいた[1]。3時間半を越える長丁場のレースとなることから、1台につき2名までドライバー登録が認められ、レース中の運転交代が可能となった。

この年、F1で重大事故が起きた事から、国際自動車連盟スポーツ委員会 (FIA-CSI) はウィングの装着を禁止する方針を表明した。日本GP特別規定もこれに従い、前年の優勝マシン、日産・R381のような可動式ウィングは使用できなくなった。

各チームの顔ぶれ

この年施行された新レギュレーションでは、スポーツカーの公認要件が連続12月間25台生産に引き下げられた。公認要件のないプロトタイプ・スポーツカーはスペアホイールとラゲッジトランクの要件が撤廃され、オープンカーに限りウィンドシールドの寸度要件がなくなった。二座席レーシングカーは前年と同様である。

大排気量のビッグマシン路線も2年目となり、国内メーカー系ワークスチームや有力プライベーターチームはより強力なマシンを準備した。メイクス国際選手権や北米のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ (以下、カンナム) で活躍中のマシン・ドライバーも来日し、国際色豊かなイベントとなった。

トヨタ
前年3リットルマシンで苦杯を舐めたトヨタは、V型8気筒エンジンを5リットルに拡大し、新設計シャーシに搭載したトヨタ・7を5台投入。7月のデビュー戦富士1000キロメートル、8月の前哨戦NETスピードカップを連勝して大一番に臨んだ。ドライバーはエース格の福沢幸雄をテスト中の事故で失い、新たに川合稔高橋晴邦、久木留博之らが加入。ポルシェ使いのヴィック・エルフォードもスポット参戦した。
日産
連覇を狙う日産は自社製V型12気筒エンジンを搭載する新型R382を投入。エントリー時点では排気量5リットルで登録していたが、登録変更が締め切られる10月8日(公式予選前夜)になって6リットルに変更申請した。また、5台エントリーしながら出場したのは3台だった。ドライバーは北野元高橋国光の両エースと、R382の開発に貢献した黒澤元治が軸となる。
いすゞ
第2回大会以来の日本GP参戦にあたり、ミッドシップ試作車をベースとするプロトタイプを大小2種2台ずつ出場させた。クーペボディのベレット・R6は市販車いすゞ・117クーペベースの1.6リットル直列4気筒エンジンを搭載。オープンボディのいすゞ・R7はムーンチューンの5リットルシボレーV型8気筒エンジンを搭載する。
タキレーシング
メイクス国際選手権のマニュファクチャラーズタイトルを初制覇したポルシェワークスと提携し、プロトタイプ・スポーツカーの908/02 (3リットル水平対向8気筒エンジン) と、スポーツカーの917 (4.5リットル水平対向12気筒エンジン) の2台が来日した。ジョー・シフェールらワークスドライバーに加え、チーム監督とメカニックも帯同した。手駒のタキ・ローラ(ローラ・T70マークIIオープン仕様)とポルシェ・910を加えて4台体制でのエントリー。
黒沢レーシング
マクラーレンからカンナムで高実績を上げている二座席レーシングカーのM12を2台購入。元2輪王者のマイク・ヘイルウッドとロザー・モッチェンバッハーも来日した。
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展開

運営の混乱

予選にエントリーした53台のエンジン排気量は0.85リットルから7.6リットルまで様々だった。主催者の日本自動車連盟 (JAF) はタイム差の大きいマシンが混走すると危険であるとの理由から、予選の足切りタイムを2分20秒00からポールポジションの120%に変更。2リットル以下のGP-I~IIIクラスについては、10月9日の予選日に別レースを行うと発表した。この方針は決勝3日前に突然通達されたため、GP-I~IIIクラスのプライベーター達の猛反対にあい、結局、主催者側が撤回して予定通り開催されることになった。

予選

10月9日の公式予選では、ニッサン・R382勢が1~3位を独占。前年の勝者北野元が、前年より6秒以上速い記録でポールポジションを獲得した。トヨタ・7勢は3秒離された4位以下に続き、タキ・レーシングのポルシェ・917が7番手につけた。ポルシェワークスは予選前日に富士を初走行したばかりで、大会規定により可動式フラップの使用も禁じられており、実力を発揮するまで至らなかった。31台が決勝進出を果たしたが、黒沢レーシングのマクラーレン・M12は1台が予選落ちとなった。

決勝

スタートではトヨタの川合稔とポルシェのジョー・シフェールが2列目から好ダッシュを決めた。川合がオープニングラップを奪ったが、3周目にはシフェールがトップに立った。スタートで出遅れた日産勢は慌てる所もなく、6周目に高橋国光がシフェールをかわしてトップに浮上。12周目には1〜3位をとり戻して後続を引き離した。長谷見昌弘のタキ・ローラ、マイク・ヘイルウッドのマクラーレン・M12は故障で早々にリタイア。トヨタやいすゞもトラブルに見舞われ、早期ピットインを強いられた。

日産勢の先頭を引っ張っていた高橋は31周目に緊急ピットイン。燃料噴射系のトラブルでその後もピットインを繰り返し、優勝争いから脱落した。黒澤元治、北野元の2台はランデブー走行で快調に周回を重ね、そのままの順位で120周を完走しワンツーフィニッシュを果たした。日産陣営はドライバー交代をせず、給油1回、タイヤ無交換という危うい作戦を成功させた。平均速度194km/hで優勝した黒澤のマシンは左リアタイヤのキャンバスが露出し、燃料も残り少ない状況だった。

続いてトヨタ勢3台が3〜5位を占めたが、3位の川合以下は周回遅れにされ、今回も大一番で日産に差をつけられた。6〜8位はタキ・レーシングのポルシェ3台。注目の917はシフェールが奮戦したものの、オーナードライバーのデヴィッド・パイパーのペースが遅く、6位に終わった。

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結果

予選

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  • クラス区分はGP-I(~1150cc)、GP-II(1150cc~1600cc)、GP-III(1600cc~2000cc)、GP-IV(2000cc~3000cc)、GP-V(3000cc~)。
  • No.9,No.23,No.32はエントリーのみ、No.26,No.27,No.28,No.29はリザーブドライバーが搭乗。
  • 予選通過基準タイム:2'20.00

決勝

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  • スターティンググリッドは3-4-3左上位方式。
  • No.12はフライングスタートのため1周減算。
  • 3位以下の完走タイム、ファステストラップは記録不明[2]
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データ

  • 大会名 '69日本グランプリ
  • 主催 日本自動車連盟
  • 決勝観客数 10万3千人
  • 決勝天候 晴れ
  • 日程
    • 10月9日 公式予選
    • 10月10日
      • 9時 ツーリングカーレース(20周)
      • 11時10分 日本グランプリ(80周)
      • 16時05分 グランドツーリングカーレース(20周)
  • サポートレース勝者
  • 日本スピードカップ勝者 加藤爽平(コルト・フォーミュラ2B)

脚注

参考文献

関連項目

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