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都平健二
日本のレーシングドライバー (1941-2024) ウィキペディアから
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都平 健二(とひら けんじ、1941年2月15日 - 2024年4月25日)は、茨城県出身の元日産追浜ワークスドライバー。レジェンドレーシングドライバーズクラブ会員。CLUB S30名誉会員。
スカイライン2000GT-Rやサニー1200GX、に乗り、幾多の名勝負を展開。特に1970年代後半から1980年代にかけてのマイナーツーリングレース:JSSシリーズでは常に優勝候補と言われるなど、ハコ(ツーリングカー)使いの名手として知られた。レースの一線は退いてからも茨城県でカーショップの「リミット」を経営は継続した。現在はショップ経営から離れている。血液型O型。愛称トッペイちゃん。名言のひとつに「コーナーは真っ直ぐ ブレーキは踏まない」がある。
経歴
要約
視点
モトクロス界の名門チームだった城北ライダースに所属し、1964年の全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)のチャンピオンを経て、同年末日産の大森宣伝第3課(大森ワークス)と契約し4輪ドライバーに転向。ただし2年間ほどは4輪レースと併行して、城北ライダースから2輪モトクロスにも出場していた。
1965年3月に川口オートレース場で行われた、ストックカーレースで4輪レースにデビュー。(410ブルーバード)
1969年に日産追浜ワークスに昇格。同年5月の日本グランプリに、高橋国光とコンビを組み、日産・R382を操り参戦。総合10位。高橋国光の名前しか出ない場合が多いが、この時期の日本グランプリは長丁場のため複数のドライバーでエントリーすることが認められており、都平も決勝レースを走っている。
同年の全日本ドライバー選手権のツーリングカーⅡ部門にて、シーズン途中で投入した日産・スカイラインGT-Rを駆り2勝を挙げ、シリーズチャンピオンを獲得した[注釈 1]。
以降も日産ワークスドライバーとしてツーリングカーレースなどに出場する一方、プライベート活動として富士グランチャンピオンレースやフォーミュラカーレースに出場。1978年にはマーチ・752で第25回マカオグランプリに出走している[1]。
- 1983年 全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に、長谷見昌弘とスカイラインターボCで参戦。
- 1988年 全日本ツーリングカー選手権 (JTC)に、鈴木亜久里/アンダース・オロフソンとスカイラインGTS-R(R31)で参戦。
- 1993年 N1耐久シリーズにBOSEスカイラインGT-R(BNR32)で参戦。河合博之とのコンビで第5戦十勝を制した。
- 1994年 N1耐久シリーズにワイズスポーツスカイラインGT-R(BNR32)で参戦。前年と同じ河合博之とのコンビで全8戦中3戦で優勝。年間タイトルを獲得。
- 1995年 N1耐久シリーズに河合博之とのコンビでアイ・オートスカイラインGT-Rで参戦。また、全日本GT選手権(JGTC)のGT1クラスにZEXEL WISE スカイライン(BNR32→BCNR33)でも河合博之とのコンビで参戦。
- 1996年 全日本GT選手権のGT500クラスにWISEスカイラインGT-R(BCNR33)で河合博之とのコンビで参戦。
N1耐久チャンピオン獲得の翌年、1995年の開幕戦では、河合と組んでR32GT-Rで出場。このレースは新型R33GT-Rの初陣だったが、都平は旧型となったR32で新型R33を破って優勝し、ベテランの技を見せた。
翌1996年のJGTCまで現役を続け引退。以後はショップ「リミット」の経営に専念したが、2010年代に体調を崩し経営から離れた。以後、体調は回復し、生まれ故郷である茨城県水戸市にて生活。都平を慕い、応援する同志により「都平健二オフィシャルサイト」が2019年に製作された(下記外部リンク参照)。都平公式のYouTubeチャンネルも立ち上げられ、現役時の映像や、現在の本人の様子なども配信された。
2024年4月25日、死去。83歳没[2]。
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レース戦績
全日本ドライバー選手権
FJ1300
全日本F2000選手権
全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権
全日本ツーリングカー選手権
全日本GT選手権
N1耐久シリーズ
スパ・フランコルシャン24時間レース
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脚注
外部リンク
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