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1973年のロードレース世界選手権

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1973年のロードレース世界選手権
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1973年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第25回大会である。4月にフランスポール・リカール・サーキットで開幕し、ハラマ・サーキットで開催された最終戦スペインGPまで、全12戦で争われた。

1973年の
FIMロードレース世界選手権
前年: 1972 翌年: 1974


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1973年のロードレース世界選手権

シーズン概要

要約
視点

東ドイツGPが世界選手権のカレンダーから外れ、この年のグランプリは全12戦となった。ただし第5戦のマン島TTのリザルトには他のグランプリとは異なるライダーが名を連ねており、これは多くのレギュラーライダーや主要なワークスチームがマン島のマウンテン・コースを「危険なコース」であるとして出場を見合わせた結果である。この傾向は、マン島TTが世界選手権から外れるまで続くことになる[1]。また、イタリアGPでは後述の250ccクラスのスタート直後に発生したアクシデントの影響により、250ccクラスと500ccクラスのレースがキャンセルされた。

この年は、前年にワークス活動を再開したヤマハがいよいよ500ccクラスにワークスマシンを投入したシーズンである。重要なマーケットであるアメリカ最大のロードレース、デイトナ200で勝つために350ccを二つ並べた並列4気筒700ccのマシンを開発していたヤマハは、それと並行して同じシャーシを使った500ccマシンの開発も進めており、この500ccワークスマシンYZR500を前年の250ccチャンピオンであるヤーノ・サーリネンと日本のエースである金谷秀夫の2人に託して開幕戦フランスGPでデビューさせたのである[2][3]

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フィンランドのトゥルクにあるサーリネンの墓

しかし、印象的なYZR500の登場以上に、この年はモンツァ・サーキットでグランプリ史上最も大きなアクシデントが起きたことで記憶されるシーズンとなってしまった。第4戦イタリアGP、250ccクラスのスタート直後に起きた事故は15台を巻き込む多重クラッシュとなり、ヤーノ・サーリネンとレンツォ・パゾリーニという2人のトップライダーが同時に死亡するという未曾有のアクシデントとなったのである。直前に行われた350ccクラスのレースでコース上に撒かれたオイルが処理されていなかったのが原因だとも言われているこの事故で、500ccクラスのエースに抜擢したばかりのサーリネンを失ったヤマハはこの年のこれ以降のレースへのワークスチームとしての出場を見合わせ、翌年までYZR500がグランプリを走ることはなかった[4]

その一方、この年はヤマハが水冷の市販マシン、TZシリーズのリリースを開始した年でもあった。TZ250/350は空冷のTD/TRと比べて最高出力などにはそれほどの違いは見られなかったが水冷化によって信頼性・安定性が大幅に向上しており、瞬く間にヨーロッパ中のロードレースを席巻することになった。特にTZ350は350ccクラスのみならず、わずかな排気量アップで500ccクラスや国内選手権の750ccクラスなどの上位クラスに出場するライダーが続出した[5]

500ccクラス

MVアグスタとともに7年の間不動のチャンピオンであったジャコモ・アゴスチーニだったが、この年は2ストロークの新型マシンYZRを投入したヤマハと、前年MVアグスタのチームメイトとなりこの年は500ccクラスにも出場することになったフィル・リードという、内外の強敵と戦うことになった。YZR500はヤーノ・サーリネンのライディングによって開幕からいきなり2連勝し、もう1台に乗る金谷秀夫も開幕から3位・2位に入るという、これ以上ないデビューを飾った。ところがイタリアGP250ccクラスのレースでの事故によってサーリネンが死亡し、突然エースライダーを失ったヤマハ・ワークスはシーズン半ばにしてこの年の選手権から撤退してしまう。

前年の350ccに続いて500ccでも4気筒の新型をデビューさせ、YZRという強敵がいなくなったMVアグスタ陣営ではリードが第3戦西ドイツでMVアグスタでの500cc初勝利を飾り、コースの安全性の問題によってファクトリーとして出場しなかった2戦を挟んでダッチTTでは2勝目を挙げた[6]。一方、チャンピオンのアゴスチーニは開幕戦のフランスでサーリネンを追っている最中に転倒してから不運に見舞われ続け、シーズンも後半に入ってからのベルギーGPでの初優勝が今シーズン初めてのポイント獲得だった[7]。アゴスチーニは続くチェコスロバキアでも連勝して巻き返しをはかるがその後も好調さを維持したリードがアドバンテージを守りきり、スウェーデンGPで3勝目を挙げて500ccクラスでは初めてとなるタイトルを決めた[8]。ついに500ccクラスの連続チャンピオン獲得の記録が途絶え、ハンドメイドのマシンで1勝を挙げたキム・ニューカムにも遅れをとってランキング3位でシーズンを終えたアゴスチーニは、この年のシーズンオフに長年慣れ親しんだMVアグスタを離れて最大のライバルであるヤマハへ移籍することを決意した[7]

350ccクラス

500ccクラスのタイトルを失ったジャコモ・アゴスチーニだが、350ccのタイトルを守ることには成功した。ヤマハに乗るチューボ・ランシボリが3勝を含む7度の表彰台という安定した速さで誰よりも多くのポイントを獲得したが、ベスト6戦のポイントを有効とする有効ポイント制のためにタイトルは4勝を挙げたアゴスチーニのものとなったのである[6][9]。これが、アゴスチーニがMVアグスタで獲得した最後の世界タイトルとなった。

250ccクラス

ディフェンディングチャンピオンのヤーノ・サーリネンと、ヤマハワークスのチームメイトである金谷秀夫が、開幕戦から3戦連続ワン・ツーフィニッシュという最高のスタートを切った。ところが第4戦イタリアGPでの多重クラッシュによってサーリネンが命を奪われ、金谷も負傷して戦列を離れてしまう。ヤマハワークスがいなくなった残り8戦は市販のヤマハに乗るプライベーターたちの争いとなり、その中で1970年の125ccクラスチャンピオンであるディーター・ブラウンが4勝を挙げてタイトルを獲得した[10]。2勝のチューボ・ランシボリは350ccクラスに続いてランキング2位となっている。

125ccクラス

ヤマハケント・アンダーソンは前半6戦のうち不出場のマン島TTを除く5勝を挙げて選手権を大きくリードしたが、ダッチTTでの転倒によって足を骨折する大怪我を負い、チェコスロバキアGPまで欠場せざるをえなくなった[6]。しかしシーズン後半は一転してヤマハに乗るチャス・モーティマーブリヂストンヨス・シャージャースマイコバリヤ・ヤンソンらが勝利を分け合う混戦となり、そのためにアンダーソンはシーズン前半に築いたアドバンテージを守りきって初めてのタイトルを獲得することができた[11]

50ccクラス

デルビワークスの撤退によって50ccクラスはクライドラーが支配するクラスとなり、中でも1971年のこのクラスのチャンピオンであるヤン・デ・フリースは全7戦中5勝を挙げ、前年アンヘル・ニエトに奪われたタイトルを取り戻した[12]

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  • 500・350・250ccccクラスは上位入賞した6戦分、125ccccクラスは上位入賞した7戦分、50ccccクラスは上位入賞した4戦分のポイントが有効とされた。

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脚注

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