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ニコライ・サプノフ
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ニコライ・ニコラエヴィチ・サプノフ(ロシア語: Николай Николаевич Сапунов, ラテン文字転写: Nikolai Nikolaevich Sapunov、1880年12月17日 - 1912年6月11日)は、ロシアの画家、舞台美術家である[1][2][3]。画家としては静物画や肖像画を描いた。31歳で事故で水死した。
略歴
モスクワで生まれた。1893年から1904年の間モスクワ絵画・彫刻・建築学校でコンスタンチン・コローヴィンやイサーク・レヴィタン、ヴァレンティン・セローフに学んだ。1902年にはイタリアを訪れている[1]。1904年からはサンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーでアレクサンドル・キセリョフに指導を受け、キセリョフが1911年に亡くなるまで弟子であった。
1904年に、モスクワ絵画・彫刻・建築学校の卒業生のパベル・クズネツォフ(1878-1968)やピョートル・ウトキン(1877-1934)らに率いられた「赤いバラ(Алая роза)」展にはじめて作品を発表した。この展覧会にはミハイル・ヴルーベリやヴィクトル・ボリソフ=ムサトフといった画家も名誉会員として招待された。その後さまざまな美術家グループに参加し、展覧会に参加した.[1][3]。
モスクワとサンクトペテルブルクで舞台美術家として活躍し、舞台美術家のコンスタンチン・コローヴィンとモスクワのボリショイ劇場やモスクワ芸術座の仕事をし、演劇プロデューサーのフセヴォロド・メイエルホリドにより上演された1906年にアレクサンドル・ブローク作の人形劇のセットや衣装をデザインした。女優のヴェラ・コミサルジェフスカヤの劇場や演劇監督のアレクサンドル・タイロフの実験劇場の舞台美術の仕事もした。画家としては、花と陶磁器を描いた静物画で知られている。
1912年の夏、女優のリュボーフィ・ブロークがフィンランド湾に面したロシアの町ゼレノゴルスク(Zelenogorsk)で公演した時、詩人のミハイル・クズミンらとともに同行した。クズミンの日記によれば、余暇に海遊びをして小さなボートで海に出た時、操船ミスでボートは転覆し、他のメンバーは生還できたがサプノフは溺死した[3]。
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作品
- 花と磁器のある静物画(1904)
ロシア美術館 - 花瓶と花と果物のある静物画
トレチャコフ美術館 - ミハイル・クズミンの肖像画(1911)
ベラルーシ国立美術館 - 画家Nikolay Milioti の肖像画(1908)
ベラルーシ国立美術館
参考文献
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