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堀鉞之丞
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堀 鉞之丞(ほり えつのじょう、1863年1月17日(文久2年11月28日)[1] - 没年不明)は、愛知英語学校出身の理学士[2]。儒学者・堀杏庵の子孫にあたる[2]。
1885年(明治18年)東京大学理学部卒業[1]。1891年(明治24年)、衛生試験所技師[3]。第一高等学校教授[4]。1908年10月30日から1914年4月30日まで尾張徳川家の御相談人、1914年9月から同家の家令を務め、1917年に明倫中学校と附属博物館を愛知県に譲渡し、名古屋の同家所有地の整理・処分を進めるなど、家政改革を推し進めた[5]。
尾張徳川家の家政改革
1914年(大正3年)5月に尾張徳川家の家令となると、前年に東京麻布区富士見町に新居を構えていた同家第19代当主・徳川義親の意を受けて、名古屋市大曽根から東京への拠点移転に向けて、家政改革を進めた[2]。
- 1917年(大正6年)には、同家の御相談人会で、東京における徳川生物学研究所の設立に伴い、1900年に大曽根に開設していた明倫中学校と同校附属博物館を愛知県へ移管することが決議され、同年11月に愛知県との交渉が妥結[6]。
- 1917年以降、名古屋の所有地の整理を大々的に行なった[5]。
- 所有地整理の結果、名古屋では大曽根邸に尾張徳川家の最低限の拠点が集約されることになった[9]。
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著書
脚注
参考文献
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