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尾張徳川家
徳川氏支流の御三家。尾張藩主家、華族の侯爵家。 ウィキペディアから
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尾張徳川家(おわりとくがわけ)もしくは尾州徳川家(びしゅうとくがわけ)は、清和源氏と称する徳川氏の支流である武家・華族だった家。江戸期に徳川将軍家の分家御三家の筆頭として名古屋藩主を世襲し、諸大名の中で最高の格式(家格)を有したが、当主から将軍はでなかった。尾張大納言家、単に尾張家、尾州家ともいった。明治維新後、華族の侯爵家に列した[2]。
歴史
要約
視点
江戸期
徳川家康の九男・徳川義直を家祖とする。義直は慶長8年(1603年)に家康から甲斐国に封じられるが、甲斐統治は甲府城代・平岩親吉によって担われており、義直自身は在国せず駿府城に在城した。元服後の慶長11年(1606年)に義直は、兄・松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清須に移封された。その際に家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて名古屋藩を治めた。
徳川将軍家に跡継ぎがないときは他の御三家とともに後嗣を出す資格を有したが、7代将軍の徳川家継没後、紀伊徳川家出身の徳川吉宗が尾張家の徳川継友を制して8代将軍に就任した。その後は御三卿が創設されたり、御三卿の系統が名古屋藩主になった影響もあって、尾張家や義直の直系子孫からは結局将軍を出せなかった。藩祖・義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として、代々伝えてきた勤皇家の家であった。
尾張徳川家の支系(御連枝)として、2代・光友の庶子が分家して創始した3家がある。陸奥国梁川藩を治めた梁川松平家(大窪松平家)、美濃国高須藩を治めた高須松平家(四谷松平家)、1万石を内分分知された川田窪松平家である。梁川家4代の松平通春が尾張家を継ぎ(7代・徳川宗春)、川田窪家2代の松平友淳(のちの尾張家8代・徳川宗勝)が高須家を継いだことで、川田窪・梁川両家は断絶し、高須家のみ長く続いている。
しかし寛政11年(1799年)に尾張家で、享和元年(1801年)には高須家で、義直の男系子孫は断絶し[注 1]、19世紀以降の尾張家は養子相続を繰り返して現在に至っている。第10代・斉朝[注 2]から第13代・慶臧まで吉宗(一橋徳川家・宗尹)の血統の養子が藩主に押し付けられたが、これに反発した尾張派は第14代・慶勝(慶恕)[注 3]を高須家から迎えることに成功し、幕府からの干渉を弱めた。
慶勝は安政5年(1858年)に大老井伊直弼と対立して安政の大獄により隠居謹慎を命じられた。井伊暗殺後に復権して第一次長州征伐の征長総督となったが、乗り気ではなく再征には反対した。明治維新後には新政府の議定を務めた[3]。続く戊辰戦争に名古屋藩軍は官軍として従軍し、戦勝後の明治2年(1869年)には軍功により慶勝に賞典禄1万5000石が永世下賜された[4]。
明治以降


同年の版籍奉還によって、第16代・徳川徳成(義宜)は名古屋藩知事に転じるとともに華族に列した[6]。
版籍奉還の際に定められた家禄は現米で2万6907石[7][注 4]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄および賞典禄(実額3750石)の合計3万657石と引き換えに支給された金禄公債の額は73万8326円8銭5厘の巨額に及び、華族受給者5位の金額だった[注 5][10][6]。
その莫大な資産のうち約43万円を第15国立銀行に出資して配当金を再投資し、また士族授産のため北海道・遊楽部原野の土地を開拓して八雲町を拓くなどして、維新後も高い政治的・経済的地位を維持した[11]。
明治前期の頃の当主である第18代・義礼の代の本邸は、東京市本所区横綱町にあった。当時の家令は間島冬道、小瀬新太郎、家扶は井上喬、土岐長久、吉田知行、大津直行だった[12]。この邸宅は明治11年(1878年)に大原家から購入して相吉町から引っ越して本邸としていた邸宅である(後に名古屋に引っ越した後に徳川義恕男爵に譲渡している)[13]。
明治17年(1884年)7月7日の華族令公布で華族が五爵制になったが、爵位の基準を定める叙爵内規は侯爵位について「旧清華家 徳川旧三家 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧琉球藩王 国家二勲功アル者」と定めており、これに基づき義礼は侯爵に叙せられた。また分家の徳川義恕も父慶勝の維新の功績により男爵に叙された(徳川義恕家)[14]。
明治25年(1892年)になると、義礼は東京本所区横綱町から名古屋市東区大曽根(現在の徳川園)に本邸を移して名古屋へ移住[15]、明治33年(1900年)に明倫中学校を開設、家財の保存に努めるなどした[16][17]。
また義礼は明治20年(1887年)以降に北海道に個人農場を所有して大農場主となり、北海道山越郡八雲町に別荘を所有した[18]。さらに明治24年(1891年)には神奈川県大磯町(明治28年(1895年)に義恕に譲渡)、明治22年(1889年)には栃木県日光原町(明治30年(1897年)売却)にも別荘を建設[19]。
明治31年(1898年)当時、尾張徳川家の所得は約11万6千円で、所得番付の12位、華族の中で第7位だった(同)。なお、財務収支の改善は明治23年(1890年)から同家の御相談人となった加藤高明によるところが大きく、それ以前は収支がトントンだったが、加藤によって収支が大幅に改善し、資産が3倍から10倍になった、とされている[20]。
大正10年(1921年)には神奈川県鎌倉、大正13年(1924年)には長野県軽井沢に別荘を建設している[21]。
第19代・義親のとき、尾張家の事務所(1913年)と本籍(1920年)を名古屋から東京[22]へ移し、1910年代以降、明倫中学校を愛知県に譲渡、什器を競売に出し、墓地を集約するなどして名古屋の施設・什器などの整理を進め、建物や所有地を大々的に処分した[23]。その旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。義親は1931年(昭和6年)に財団法人尾張徳川黎明会を設立し、処分した什宝の売却益などにより[24]大曽根の義礼邸跡地に徳川美術館、目白に蓬左文庫・徳川生物学研究所を開設した[25]。
戦後、昭和21年(1946年)に義親が戦争協力者として公職追放にあい、昭和22年(1947年)に華族制度廃止により爵位を喪失した[26]。また、財産税の適用により資産の約8割を喪失[26]、保有していた南満州鉄道の株券が無価値になり[27]、八雲町の徳川農場は農地法の適用を受け、一部の山林を残して解放された[28]。
これにより巨万の富を失った尾張徳川家は、財政難のため目白の邸宅を西武に売却[29]、蓬左文庫は昭和25年(1950年)に藩政資料などを徳川林政史研究所に残して名古屋市に売却され、徳川生物学研究所は昭和45年(1970年)に閉鎖、施設はヤクルトに売却された[30][31][32]。
平成28年(2016年)現在、公益財団法人徳川黎明会が徳川美術館と徳川林政史研究所を運営[33]、株式会社八雲産業が目白の邸宅跡地に建設された外国人居留者向けの賃貸住宅と八雲町に残された山林を運営しており[34][35][36]、尾張家の当主は黎明会会長、美術館館長、八雲産業社長に就任している[37][38]。
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歴代当主と後嗣たち
- 初代(藩主) 徳川義直 - 敬公
- 光友(2代)
- 2代(藩主) 徳川光友 - 正公
- 3代(藩主) 徳川綱誠 - 誠公
- 4代(藩主) 徳川吉通 - 立公
- 五郎太(5代)
- 5代(藩主) 徳川五郎太 - 誉公
- (実子なし)
- 6代(藩主) 徳川継友(3代藩主綱誠の子) - 曜公
- (実子なし)
- 7代(藩主) 徳川宗春(3代藩主綱誠の子) - 逞公
- (実子なし)
- 8代(藩主) 徳川宗勝(支藩高須藩3代藩主から襲封、名古屋藩2代藩主光友の孫) - 戴公
- 9代(藩主) 徳川宗睦 - 明公
- 10代(藩主) 徳川斉朝(一橋徳川家から養子) - 順公
- (実子なし)
- 11代(藩主) 徳川斉温(徳川将軍家から養子、11代将軍徳川家斉の実子) - 僖公
- (実子なし)
- 12代(藩主) 徳川斉荘(田安徳川家から養子、11代将軍徳川家斉の実子) - 懿公
- 昌丸(一橋徳川家8代当主、夭折)
- 13代(藩主) 徳川慶臧(田安徳川家から養子)- 欽公
- (実子なし)
- 14代(藩主) 徳川慶勝(初め慶恕/支藩高須藩から養子、水戸藩6代藩主徳川治保の曾孫)- 文公
- 義宜(16代)
- 15代(藩主) 徳川茂徳(支藩高須藩11代藩主から襲封、14代慶勝の実弟、のち一橋徳川家10代茂栄)
- 16代(藩主) 徳川義宜(養子、14代慶勝の実子) - 靖公
- (実子なし)
- 17代 徳川慶勝(14代慶勝の再勤)- 文公
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尾張徳川侯爵家
当主
御相談人会
尾張徳川家との旧臣関係による家政の顧問会[40]。1908年に19代・義親が家督を相続したときには田中不二麿を御相談人長とし、加藤高明、永井久一郎、成瀬正雄、中村修、横井時儀、片桐助作の6人が御相談人となっていた[41][40]。のちに八代六郎、渡辺錠太郎、大角岑生、松井石根ら陸海軍の将校が御相談人となった[40]。
御相談人長
御相談人
家職
1908年に19代・義親が家督を相続したとき、東京(別邸)には家扶・水野正則以下3人、名古屋・大曽根の本邸に家令・海部昂蔵以下、家扶4人、家従8名が勤務していた[48]。
家令
家扶
戦後の尾張徳川宗家
系譜
要約
視点
凡例:太線は実子、破線は養子、太字は当主
義直1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光友2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱誠3 | (四谷) 松平義行 | (大窪) 松平義昌 | (川田窪) 松平友著 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉通4 | 松平通顕 (継友) | 松平義孝 | 松平通温 | 松平通春 (宗春) | 松平義孝 | 松平武雅 | 松平義方 | 松平友淳 (宗勝) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
五郎太5 | 松平義淳 (宗勝) | 松平義真 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
継友6 | 松平通春 (宗春) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗春7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗勝は宗春の養子にはならず、藩領は一旦収公ののち宗勝に下す形がとられた。
宗勝8 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗睦9 | (四谷) 松平義敏 | 松平勝当 | 竹腰勝起 | 井上正国 | 内藤頼多 | 内藤政脩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
治休 | 治興 | 治行 | 斉朝10 [注 6] | 松平義柄 (治行) | 松平義裕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉温11 [注 6] | 松平勝当 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉荘12 [注 6] | 松平義居 [注 6] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶臧13 [注 6] | 松平義和 [注 3] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶恕14/慶勝17 | 松平義質 | 松平義建 | 松平容敬 | 遠藤胤昌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
茂徳15 | 義礼18 | 徳成 (義宜) | 義恕 | 慶恕 (慶勝) | 松平武成 | 松平義比 (茂徳) | 松平容保 | 松平定敬 | 松平義勇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平義端 | 達道 | 義宜16 | 義親19 | 義寛 | 津軽義孝 | 義忠 | 義恭 | 松平義端 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義知20 | 大給義龍 | 松平義勇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義宣21 | 松平義生 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義崇22 | 松平義為 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平義明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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関連寺院
尾張徳川家の別荘
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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