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岡見氏
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概要
岡見氏は、筑波の小田氏から分流したが、小田氏が没落してからは小田原の後北条氏と同盟し、多賀谷氏と戦ってきた。そして、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の関東攻めで、岡見氏は後北条氏と共に牛久城を去った。
岡見領
最盛期の天正15年(1587年)から同18年(1590年)頃に岡見治広が後北条氏に提出したとされる岡見氏本知行等覚書によると、牛久城、東林寺城、谷田部城、足高城、板橋城が岡見氏の城とされる。城主は、牛久城が岡見治広、東林寺城が弟五郎左衛門、谷田部城が丹波に預)足高城が治広の又甥の岡見宗治、板橋城が牛久の旗下月岡上総介と記されている。
系譜
要約
視点
天正期の牛久岡見氏の当主は、岡見治部大輔治広で、足高岡見氏の当主が岡見中務少輔宗治。二人は「又甥」の関係にあり、牛久岡見氏が本宗として、常陸南部に勢力を伸張させていた。
実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
| 相馬胤村 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 岡見師房 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 師長 | 師保 | 小田治久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 女 | 岡見邦知 | 孝朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 国久 | 持家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 治頼 | 朝久 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 頼久 | 成治 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 治親 | 治孝 | 岡見義治 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 頼勝[2] | 宗治 | 岡見治資 | 義綱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 宗治 | 照親 | 富重 | 治重 | 義知 | 経吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 内膳 | 某 | 幕臣 | 紀州藩士 | 紀州藩士 | 経吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 彦根藩士 | 紀州藩士 | 経豊 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 水戸藩士 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
水戸藩士 岡見氏
脚注
参考文献
関連項目
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