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牧野康成 (石戸領主)
戦国武将、徳川家臣、武蔵石戸領主 ウィキペディアから
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牧野 康成(まきの やすしげ)は、戦国時代の武将・徳川氏の家臣。
概略
初名は半右衛門正勝と称す。のち徳川家康より偏諱を授かり康成と改名する。史書では、ほとんど通称で牧野半右衛門として言及される。家康の伊賀越えに随行した(石川忠総留書)。
「石川忠総留書」、および『常山紀談』の「東照宮勝頼と大井川にて御対陣の事」には「牧野半右衛門」、山鹿素行の『武家事紀』には「牧野半右衞門尉」(同姓同名の牧野康成(まきの やすなり)も記載あり)と記される。
父は、三河国宝飯郡牛久保城主・牧野氏の寄騎(牛久保六騎)であった牧野山城守定成。正室は小笠原安次の娘。
まだ徳川氏が三河西部の国人領主松平氏であった時代に、三河東部の有力国人であった牧野氏は、駿河・遠江の戦国大名・今川氏と、新興勢力であった松平氏との間で翻弄されていた。徳川家康(当時は松平家康)が東三河に進攻し優勢になった永禄8年(1563年)に牧野山城守は、嫡子・半右衛門正勝(のちの康成)と共にいちはやく内通した。その後は牛久保城主牧野氏の徳川家康に対する帰順と、家康の三河平定に寄与した。
そののち牧野組を離れ、武蔵国足立郡石戸領(現在の埼玉県上尾市北西部から鴻巣市南西部にかけての地域)に5,000石の所領を与えられ、領内の川田谷村(現在の埼玉県桶川市川田谷)に陣屋を置き、徳川家康の直参となって仕えた。
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