カミーユ・サン=サーンス
フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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シャルル・カミーユ・サン=サーンス(フランス語: Charles Camille Saint-Saëns, フランス語: [ʃaʁl kamij sɛ̃ sɑ̃(s)];[注 1], 1835年10月9日 - 1921年12月16日)は、フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト、指揮者。広く知られた作品として『序奏とロンド・カプリチオーソ』(1863年)、ピアノ協奏曲第2番(1868年)、チェロ協奏曲第1番(1872年)、『死の舞踏』(1874年)、オペラ『サムソンとデリラ』(1877年)、ヴァイオリン協奏曲第3番(1880年)、交響曲第3番『オルガン付き』(1886年)、『動物の謝肉祭』(1886年)などが挙げられる。
カミーユ・サン=サーンス Camille Saint-Saëns | |
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ナダール撮影。 | |
基本情報 | |
出生名 |
シャルル・カミーユ・サン=サーンス Charles Camille Saint-Saëns |
生誕 |
1835年10月9日 フランス王国・パリ |
死没 |
(1921-12-16) 1921年12月16日(86歳没) フランス領アルジェリア・アルジェ |
学歴 | パリ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 |
作曲家 ピアニスト オルガニスト |
担当楽器 |
ピアノ オルガン |
サン=サーンスはわずか10歳でコンサート・デビューを果たすなど、類い稀なる才能を持って生まれた。パリ音楽院で学んだ後、一般的な教会オルガニストとしてのキャリアをスタートし、はじめはパリのサン=メリ教会(英語版)、1858年からはフランス第二帝政下の公的な教会であったマドレーヌ寺院に勤めた。20年を経てオルガニストの職を退いた後は、フリーランスのピアニスト、指揮者として成功を収め、ヨーロッパと南北アメリカで人気を博した。
若い頃のサン=サーンスは当時最先端の音楽であったシューマン、リスト、ワーグナーに熱狂したが、彼自身の楽曲は概して従来からの古典的な伝統の範囲に留まっている。音楽史を専門とする学者でもあった彼は、過去のフランスの作曲家が作り出した構造に傾倒し続けた。これにより晩年には印象主義音楽や音列主義音楽の作曲家たちとの間に軋轢を生むことになる。その音楽はストラヴィンスキーや『6人組』の作品を予感させるような新古典主義的な要素を持っていながらも、サン=サーンスはその晩年にあっては保守的であったと看做されることが多い。
サン=サーンスが教職に就いたのはパリのニデルメイエール音楽学校で教えた1度きりで、教壇に立った期間は5年に満たなかった。しかしこれはフランス音楽の発展に大きな役割を果たした。彼の門下からはガブリエル・フォーレが巣立っており、モーリス・ラヴェルらがそのフォーレに教えを乞うている。この両名はいずれも彼らが天才と崇めたサン=サーンスの影響を色濃く受けている。