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ネイサン・ヘイル(英: Nathan Hale、1755年6月6日-1776年9月22日)は、アメリカ独立戦争のときに大陸軍のために働いた軍人である。アメリカでは最初のスパイと広く認められており[1]、情報収集任務を買って出たが、イギリス軍に捕まった。ヘイルはロングアイランドの戦い後に絞首刑にされたが、その前に「私はこの国のために失う命が一つしかないことを悔やむだけだ」と発言したことで記憶されている[2]。
ヘイルは長い間アメリカの英雄と考えられてきており、1985年には公式にコネチカット州の英雄と指定された[3]。バージニア州ラングレーのCIA本部[4]やワシントンD.C.のフェデラル・トライアングルなど多くの場所にヘイルの彫像が置かれている。
ヘイルは1755年にコネチカット植民地コヴェントリーで生まれた。1768年、ヘイルが13歳のときに兄弟のイーノックと共にイェール大学に入学した。その時の級友には同じくパトリオットのスパイとなったベンジャミン・トールマッジがいた[5]。ヘイル兄弟はイェールの文学的友愛会である「リノニア」に属し、そこで天文学、数学、文学および奴隷制に関する倫理を論じた。ヘイルは1773年に成績優等で卒業し、最初はイースト・ハダムで、その後ニューロンドンで教師になった。1775年にアメリカ独立戦争が始まった後は、コネチカット民兵隊に加わり、中尉に選ばれた。
その民兵隊がボストン包囲戦に参加したときに、ヘイルは後方に残ったが、7月6日にスタンフォードのチャールズ・ウェブ大佐の指揮する大陸軍の正規軍である第7コネチカット連隊に入隊した。ヘイルは大尉に昇進し、1776年3月にはニューヨーク市を守るトマス・ノウルトン大佐のレンジャー部隊の小部隊を指揮した。この部隊はイギリス海軍の艦船マン・オブ・ウォーから物資を満載した1隻の船を救出することに成功した。
1776年8月27日のロングアイランドの戦いではイギリス軍がスタテンアイランドからロングアイランドに渡って側面攻撃を行うことで勝利して、その後のニューヨーク市占領に繋がった。ヘイルは9月8日に敵前線の背後に回りイギリス軍の動きを報告する任務を志願した。ヘイルは9月12日に船でロングアイランドに渡った。これは捕まれば即座に死罪となるスパイ行為であり、ヘイルにとっては大きな賭けになることだった。
その間にニューヨーク市(当時はマンハッタン島の南端、ウォールストリート辺り)が9月15日にイギリス軍に占領され、ワシントン軍はマンハッタン島北端のハーレムハイツ(現在のモーニングサイド・ハイツ)にまで後退を強いられた[6]。9月21日、マンハッタン下流側の4分の1が大火で焼けた(1776年のニューヨーク大火)。この火事は後に、町がイギリス軍の手に落ちるのを妨害する為にアメリカ人破壊工作者が火を放ったと考えられてきたが[7]、ワシントンや第二次大陸会議はこのアイディアを既に否定していた。また、市内に残っていたパトリオットを罰するか怯えさせるためにイギリス兵が命令無しに行動した仕業だと考えられてもいるが、これは予期せぬ結果になった。火事の後で、200人以上のアメリカ人ゲリラがイギリス軍に捕まった。
ネイサン・ヘイルが捕まった経緯は、コネチカット書店主でロイヤリストのコンシダー・ティファニーが書き、連邦議会図書館が後に入手したものがある。ティファニーの証言に拠れば、クイーンズ・レンジャーズのロバート・ロジャーズ少佐が酒場でヘイルを見て、その変装にも拘らず彼を見破った。ロジャーズはパトリオットを装うことでヘイルを裏切らせようとした後に、ロジャーズとそのレンジャーズがクイーンズのフラッシングベイ近くでヘイルを拘束した[8]。これには別の話もあり、ヘイルの従兄弟サミュエル・ヘイルがヘイルの正体を暴露した者だったということである。
イギリス軍のウィリアム・ハウ将軍はマンハッタンの田園地帯である50番通りと51番通りの間、かつ1番アベニューと2番アベニューの間の小山にあるビークマンの家を作戦本部にしており[9]、ヘイルはハウに尋問され、身体的特徴を見つけられたとされている。ロジャーズはこの件に関する情報を提供した。伝説に拠れば、ヘイルはその作戦本部がある邸宅の温室でその夜を過ごした。ヘイルは聖書を要求したが拒否された。その後暫くして牧師を要求したが、これも拒否された。
当時の慣例に従えば、スパイは違法な戦闘要員として絞首刑にされていた。1776年9月22日の朝、ポスト道路をダブ・タバンと呼ばれた宿屋の隣にあった砲兵隊の駐屯所(現在の66番通りと3番アベニューの角)まで歩かせられ、絞首刑にされた[10]。21歳だった。後にヨーロッパでアフリカ系アメリカ人ボクサーとして有名になった元奴隷でロイヤリスト、13歳のビル・リッチモンドが死刑執行人の一人だったと伝えられている。「彼の担当は強い木の枝にロープを結びつけて、結び目と輪なわを持っておくことだった[11]。」
ネイサン・ヘイルに関する学者メアリー・ベス・ベイカーは、ヘイル死後の名声はイェール大学の卒業生が独立戦争の英雄だと主張したことから高まったと述べている[12]。
あらゆる史料に拠れば、ヘイルは処刑前に雄弁に振舞ったとされている。長年にわたって彼が具体的に次の有名なセリフをはいたかどうかについて幾つかの考察が行われてきた。
私はこの国のために失う命が一つしかないことを悔やむだけだ。
これには別の説もある。
私はこれまで関わってきた大義に満足しているので、唯一の悔いはそのために差し出せる命が一つしかないことだ。
ヘイルの有名な発言に関する話は処刑を目撃したイギリス兵ジョン・モントレソールから始まった。処刑から間もなく、モントレソールはヘイルの死についてアメリカ軍士官ウィリアム・ハルに話した。後にこのヘイルのセリフを広く広めた者がハルだった。ハルはヘイルの発言を直接聞いた者ではなかったので、歴史家の中にはその証言の信頼性について疑問を投げる者がいた[10]。
もしヘイルがこの有名な発言をしたのでなければ、ジョゼフ・アディソンの劇『カトー』で多くのパトリオットに理論的影響を与える次のセリフを繰り返したかもしれない。
死は美徳で得られたときになんと美しいことか
誰がその若さでありたいと思わないだろう?なんと哀れなことか
我々の国のために尽くすために一度しか死ねないことが
ヘイルの発言について公式の記録は残っていない。しかし、イギリス軍の士官フレデリック・マッケンジーはその日の日記に次のように記した。
彼は偉大な平静さと断固とした態度で振る舞い、その総司令官から与えられた如何なる命令にも従うのが、あらゆる良い士官の任務だと考えていると話し、見物人にはどのような形になっても死に出会うことに常に備えておくことを望んだ。
ネイサン・ヘイルの最後の発言が一文以上だった可能性が強い。初期の史料の幾つかは彼が異なる発言をしたと伝えている。これらは必ずしも矛盾しているのではなく、むしろどのような発言がなされたはずであるかという概念を与えてくれている。以下の引用は1941年に出版されたジョージ・ダドリー・シーモアの著作『ネイサン・ヘイルの人生ドキュメンタリー』から採ったものである。
ネイサンの兄弟イーノック・ヘイルの日記から、処刑に立ち会った人々を尋ねて行った後で、1776年10月26日:「絞首台の前で、彼はネイサン・ヘイルという名の大陸軍大尉だと彼らに告げた。」
「エセックス・ジャーナル」1777年2月13日:「しかし、絞首台の前で、彼は分別があり勇気のある発言をした。数ある中でも、彼らは無実の者の血を流している、もし彼に千の命があるならば、彼の傷つき血を流す国を守るために、命を要求されたときに全て捧げるだろうと告げた。」
「インデペンデント・クロニクル・アンド・ユニバーサル・アドバタイザー」1781年5月17日:私はこれまで関わってきた大義に満足しているので、唯一の悔いはそのために差し出せる命が一つしかないことだ。」
ウィリアム・ハル大尉の自伝から、処刑に立会い、翌日休戦の旗の下でハルに話したイギリス軍ジョン・モトレソール大尉について言及し、:「彼の処刑の朝」とその士官は続けた「私の駐屯地は運命の地点に近かったので、私は憲兵司令官(悪名高いウィリアム・カニンガム)に囚人が私のテントに入る許可を求め、その間に彼は必要な準備をしていた。ヘイル大尉が入ってきて、彼は静かであり、穏やかな尊厳に包まれており、正直さと高い意思を示していた。彼が筆記道具を求め、私が与えた。彼は2通の手紙、1通は彼の母に、もう1通は兄弟の士官に書いた。」彼はその後間もなく処刑台に連れ出された。しかし彼の周りには数人がいるだけだったが、その特徴的辞世の言葉は記憶された。「私はこの国のために失う命が一つしかないことを悔やむだけだ」と彼は言った。
偶然にもハルは米英戦争の時にアメリカ北西部全軍をイギリス軍に対して降伏させてしまった准将として良く知られている。
2つの古いバラッドがヘイルの最後の発言を思い起こさせようともしている。それらは正確さよりもおそらく想像によるもではあるが、以下に全文を記す。
汝、恐怖の青ざめた王、汝は命の憂鬱な敵、奴隷を脅しに行け、奴隷を脅しに行け、暴君に告げよ、彼らの抱く忠誠心を、勇敢な者に恐怖は無い、勇敢な者に恐怖は無い。
抑圧の専制的な計画を憎み、人間の自由と権利を愛す。奴隷の鎖から西の数百万人の未来を救い、人のでっちあげの無い安全な未来を渡すと強く望む。全ての者がまさに尊敬する神聖なる真実を。これらの目的のために、私は生きたいと思う。彼は勇敢に「さもなくば敢えて死に会おう」と叫んだ。残酷な人でなしが彼の運命を宣告したときに答えて、「これでいい、すべて平和がくるならば、私が刀を抜いた神聖なる大義が行き渡り、平和が回復される。私に生を与えてくれた国に熱烈に仕え、私の進む道を完遂し、この世で仕事を終えた。聖なる神のもとに死すべきものとして導く輝ける道への踏み段を目指してきた。私は観念して死ぬ、人生の空虚な段階を諦める、私が関わりたいと願った明るい世界のために。私の体が埃の中に眠る間に私の魂は公正の集まりの中に加わるのだ。
マンソンはヘイルが大学に入る前に教えており、彼とその家族を良く知っていたので、この発言の特定部分がありそうにないとしても、マンソンはヘイルの意見が何であるかをまず知っていた。
ヘイルは、彼が何をしたからではなく、彼が何故それをしたかのために、アメリカの英雄に含まれている。ネイサン・ヘイルは将軍のテントがヘイルの学校校舎の直ぐ隣にあったのでイギリス軍をスパイした。大陸軍に戻る途中でイギリス軍が彼の校舎に押し入って彼を攻撃した。 — 元CIA長官リチャード・ヘルムズ
あの青年がそれらの言葉を言ったから、また彼が死んだから、他の数千の若者がこの国に生を与えられてきた。 — エドワード・エバレット・ヘイル、ネイサン・ヘイルのいとこ甥、1893年、ニューヨーク州でのヘイルの彫像除幕式で
66番通りと3番アベニューの角以外に、マンハッタンの他の2地点が処刑の場所だと主張されている。
ネイサン・ヘイルの遺骸は見つからなかった。中身の無い慰霊碑がコネチカットのサウスコヴェントリーにあるネイサン・ヘイル墓地に家族の手によって建てられた[5]。
ヘイルの彫像は理想化された原型に基づいている。ヘイルの当時の肖像画は見つかっていない[5]。文献や手紙からは、ヘイルが知識があり、実際的で前向きに計画する几帳面なものだったことがわかる[5]。外観と態度については、仲間の軍人エリシャ・ボストウィック中尉が、ネイサン・ヘイルは青い瞳、亜麻色の金髪、濃い眉毛をしており、(当時の)平均的身長より幾分高く、落ち着いた心と敬虔さのある精神的な強さを持っていたと記した。ボストウィックは次のようにも記していた[5][13]。
…私は今想像の中で彼の人となりを見、彼の声を聞くことができる。その人は身長が通常のひとより幾分高く、肩は並みの幅であり、手足は真っ直ぐで大変肉付きがよかった。まともな人間であり、大変肌が白く、青い目、亜麻色か大変明るい髪は常に短く刈られ、眉毛は髪よりも暗色であり、声はむしろ鋭く甲高い、身体的敏捷さは素晴らしい。私は彼がフットボールを追いかけてニューヨークのバワリー通りにある樹木よりも上に蹴上げるのを見た(彼の好んだ運動だった)。彼の精神力は通常より上に思えた。心は落ち着いて真面目な傾向であり、疑いも無く敬虔だった。彼の中隊の兵士達の誰でもが病気になった時は、彼らを見舞って、通常病気の仲間とともにまたそのために祈ったのは注目すべきだ。[13]
ヘイルは2つの特に有名な立像で栄誉を称えられてきた。
ヘイルがスパイ任務のために上陸したニューヨーク州ハンティントンには記念碑があり、乗船点とされるコネチカット州ノーウォークのフリーズ公園には標識がある。
さらにチューレーン大学法律学校法律図書館の読書室をヘイルの彫像が見下ろしている。この像は卒業生のモリス・キールが1963年にチューレーン大学に寄贈した。
ヘイルは1692年のセイラム魔女裁判で重要人物だったジョン・ヘイルの曾孫だった。また、演説家で政治家のエドワード・エヴァレット(ゲティスバーグでのもう一人の演説家)の叔父であり、またユニタリアン教会の牧師、著作家および奴隷制度廃止運動を含め社会の大義のために著名な活動家だったエドワード・エバレット・ヘイルの大叔父でもあった。「ボストン・デイリー・アドバタイザー」紙を創刊し、「ノースアメリカン・レビュー」誌の創刊に貢献したネイサン・ヘイルの叔父だった[14]。
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